沈まぬ太陽

2010年1月18日

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 2010年がスタートしてすでに2週間が過ぎている。年々、月日の経つのがどんどん早くなるように感じるが、今年は、そんな時間に流されぬよう、少しゆっくりと立ち止まって、いろいろなことを書いてゆこうと思う。

 今日の朝日新聞の朝刊に「山崎豊子さん、ペンに信念」というタイトルで、山崎氏へのインタビュー記事が載っていた。ちょうど先週、映画『沈まぬ太陽』を見たところだったので、吸い込まれるようにその記事を読んだ。85歳の山崎氏は、「体調さえ回復すれば、これから取り組みたいテーマはいくつもあります…」と語っている。その書くこと、表現することへの意欲、精神力には、恐れ入るばかりだった。体力がないと、日々なげいている自分がちょっと情けなくなってきた。それにしても、山崎氏の作品を生み出すための取材はどのように行われているのだろうか、ずっとその極意が知りたかった。『白い巨頭』を書くときは、「医学の世界を半年で猛勉強して、さらに医療過誤裁判を描くために専門の弁護士の先生に法律も学び、そして一から取材して、ペンの先から血がにじむような思いで人物を作りあげていったのです」という。そうして、『華麗なる一族』、『不毛地帯』、『二つの祖国』、『大地の子』、『沈まぬ太陽』と作品を連ねてゆくのだ。「弱い立場の人を見過ごせない、不条理を許せない」という氏の想いが生み出した作品の数々。そのように記事は締めくくっていた。

 ときどき思うことがある。あるテーマを表現するとき、徹底した取材の後、それをノンフィクションとして書くより、小説として書いた方が、より事実、真実に近づくのではないかと。
『40代初産をはじめた女性たち』を書いたとき、わたしは、40代まで産まなかった、あるいは産めなかった女性たちが、いったいそれまでどんな半生を生きてきたのか、その時代や社会を描こうとした。
 取材を進めるうちに、20世紀後半から21世紀にかけ社会が大きく変わりゆく中で、「社会の不条理」にもがいている女性たちに何人にも出会った。常識的なマジョリティに入れないがゆえに、ある意味、弱い立場に追い込まれている人たちだった。ふっと自分に妥協して、常識的なマジョリティに入ってしまえば、何も悩むことなく一般的な幸せが手に入れられたかもしれない人たちとも言える。しかし、頑固なまでにそれを拒むのだ。そしてそれゆえに、「40代初産」になっていたのである。
 それは、『沈まぬ太陽』の主人公、恩地元と同じ匂いをもつ人間だとわたしは感じていた。立ち向かう社会、組織の大なり小なりはいろいろだが、男、女、関係なく、世の不条理に翻弄されてしか生きてゆけぬ人間はたくさんいるのである。そんな人間を、『40代初産をはじめた女性たち』でも描こうとしたのだ。
 しかし、いざノンフィクションで書こうとすると、取材した人間のプライバシーを守ることが先に立ち、事実をかなりぼやかしてしか表現できないという大きな壁にぶち当たるのだった。もっと社会の不条理を鮮明に描き出し、同じようなことがくり返されないように、または同じような思いの人への希望へのメッセージにしたいと思うものの、これ以上書くと、取材した人物が特定されてしまうのではとの懸念が持ち上がってきて、ペンがストップしてしまう。いや、パソコンのキーボードをたたく手がストップしてしまうのだ。それゆえに、フィクションである小説なら、もっと社会の真実に迫れるのではとの思いに、時々なるのだった。
 事実、次のテーマに向けての取材もはじめているが、こちらもプライバシーの問題を懸念され、けっこう取材拒否を受けている。
 「ペンに信念」。
 さて、わたしはどのような信念をペンに込めるのか、今後ますます問われてくるのだろう。『沈まぬ太陽』を見て刺激を受けたばかりゆえに、改めてノンフィクションの現状を考えさせられたのだった。しかし、いずれにせよ不屈な精神力がなければ、誰も真実は描くことはできない。