新しい季節

2015年5月10日

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 今まで使用していた、ホームページ作成ソフトが壊れたのは、かれこれ2年前。その後、すぐに代替ソフトを検討し、自分で使いこなせそうなものを購入したが、いざ使おうとすると、まったく使い方が分からなかった。
 はじめてでも安心、本格的なウェブサイトが作れる。自由にデザインできる──。そんな宣伝コピーに魅力を感じ、新しいデザインのウェブサイトを公開する日を夢見たのだが、見事に撃沈だった。結局、この2年間、1度もホームページを更新することができずに月日が流れていたのである。ある意味、ホームページを更新する必要がないほど、何の変化もない、平凡で平坦な日々だったのかもしれない。
 いや、正直にいえば、フリーライターの私にとって、この2年間は、じつに揺れに揺れた年月だった。自分のライフデザインが大きく変わるかもしれない。そんな期待と不安の日々。その方向性が定まらない間は、落ち着かず、新たなウェブサイトを作ることもできなかったのである。

 はじまりは、何だったのだろう。リーマンショック後の影響か。出版不況か。いや、マラソンを走り出したことかもしれない。アンコール・ワットへ走りに行き、そこでカンボジア内戦の現実や、地雷の被害を肌身で感じ、取材をはじめていたからかもしれない。あるいは、父の戦時中の日誌を読んだことなのかも。いずれにせよ、積み重なる社会の矛盾や理不尽さ、戦争の悲劇を目撃しつつも、フリーライターとして一人でできることの限界を感じていた私は、同じ「志」をもつ人たちと仲間となり表現していきたい。その思いが強くなっていた。
 そんななか、ちょうど、2年前の今ごろ…。私はふと目にとまった新聞記事を読み、心にさざ波が立った。それは、「求む!志ある編集長」という見出しで、ある硬派の写真ジャーナリズムの雑誌が、次期編集長を公募するというものだった。健康に不安を抱えている現編集長が編集長交代を決めたのである。応募資格は「世界のフォトジャーナリストが作品を発表する舞台を守る志のある人」。そして応募者は、目指す雑誌の姿を形にしたサンプル本をまるごと1冊作って、それを定期購読者1万人が投票によって審査するという内容だった。
 最初はとても小さなさざ波にすぎなかった。挑戦してみようかしら。でも「志」はあっても、私には編集者としての経験がないから無理だわ。しかも、見本誌をまるごと1冊作るなど、とてもできそうもない。そう思い、一瞬にして「志の扉」を閉じてしまったのである。
 しかし、秋口となり、その雑誌社が次期編集長公募に関する相談会を開催するという情報を知り、ふたたび心にさざ波が立った。どうして、こんなにまで気になるのだろう…。まずは相談会に参加してから、応募するかどうか決めてもいいのでは。そんな思いが湧いてきた。それほど、その写真ジャーナリズム誌が謳う「志」には強くひかれるものがあったのだ。
 人々の意志が戦争を止める日が必ず来る。一枚の写真が国家を動かすこともある──。

 実際、相談会に何度か参加して、その雑誌の編集長(当時)兼社長と話をした。世界のフォトジャーナリズム誌が次々と廃刊になるなか、世界の真実の姿を伝えようとする写真の、発表の舞台を守り抜くために、「新たな力がほしい」というのが彼の思いだった。そして、「次世代のフォトジャーナリズム誌」を創り出していってほしいと。
 ふり返れば、最盛期には全世界で800万部以上も発行された、アメリカのグラフ誌『LIFE(ライフ)』(週刊誌)が、テレビの台頭などによる経営悪化で、最初に休刊に追い込まれたのは1972年だった。その後、月刊誌として復刊するものの、休刊、復刊を繰り返すなか、経営事情はきびしく、2007年にはついに紙媒体としての『LIFE』は姿を消すことになる。このように、今、世界のフォトジャーナリズム誌は、まさに存亡の危機にあった。
 それは、私が挑戦しようとしている、日本で唯一のフォトジャーナリズム誌であるこの雑誌もまったく同じ状況だった。それゆえに、知れば知るほど、私は、挑戦しよう、やはりやめておこう、という相反するふたつの気持ちが行ったり来たりした。

 結局、かなり逡巡したものの、相手の懐に飛び込んでみようと決断し、応募することにした。私も一人のフリーランスライターとして、発表媒体の確保と取材費の資金調達が、また制作の現場が、どんなにきびしいか痛いほどわかっていた。このままでは、世界のきびしい現実を伝えようとするフォトジャーナリストとメディアがなくなってしまう。やはり、「次世代のフォトジャーナリズム誌」を創り出していくことには大きな意味がある。そう意を決した。
 サンプル本を1冊まるごと作るのに、残された時間は約1ヶ月間。果たして間に合うだろうか。ただちにリサーチ、企画、制作と、寝る間もなく、72ページのサンプル本を作ることとなった。
 今や一億総カメラマン時代。iPhoneなどを使って、誰もが、いつでもどこでも美しい写真を撮って、“現場の今”を刻々と発信できる時代となっていた。そんななか、プロのフォトジャーナリストは何を撮るべきなのか。どのように現実を切り取り、「時代の本質」を伝えていくべきなのか。そして、写真を撮る人と、見る人とを、どのように結びつけたらいいのか──。
 考えに考え抜いた時間となった。その間、四六時中、世界中の写真と写真家を探した。そして、現在、世界は戦争や紛争だらけ、写真は死体だらけだったことを知り、愕然とした。しかも、何十年、何百年にわたり、解決の糸口が見出せないことばかりで、気が遠くなりそうになった。
 しかし……。一度、腹をくくったのだから、前に進むしかなかった。飛び込んで、前に進むなかで、力をつけていくしかない。そう自身に言い聞かせ、まずは2つのスローガンを掲げた。

  「いのちの叫び」を聞く、写真の力。  
  多様性のなかの非戦を、めざしたい。

 ここから、「現在・過去・未来の命」に光を当てる人間ドキュメンタリーを、プロフェッショナルな視点で伝えていくことを編集方針とした。そして、小さきものの立場に立ち、戦争、テロ、難民、貧困、原発、人権問題などの現場を目撃しつづけよう。異なる正義や宗教、多様性を見つめる「眼」をもとう。「権力の監視」というジャーナリズム本来の役割を果たしていこうと。
 さらに、より広い読者層にアピールするため、シンプルで美しい誌面デザインにリニューアルをし、かつ日英2カ国語併記とした。10年後、20年後を見据え、その第一歩目を、ここで踏み出したい。日本が直面する問題も、世界のなかでの出来事という位置づけにしていきたい。そんな思いだった。
 こうして何とかギリギリ、作品応募締切時間の24分前に見本誌を完成させ、そのデータを雑誌社に送り安堵した。2013年11月1日23時36分のことだった。

 それから約1ヶ月後、1次審査の結果が知らされた。定期購読者による投票で、上位4作品の中に入っているとのことで、書店員や大学教授などによる2次審査に進むことになった。国会では、「特定秘密保護法」成立に向けて議論が大詰めを迎えていたころ。「国民の知る権利」や「表現の自由」が脅かされる時代へ進んでいこうとする日本で、「権力の監視」をすべきメディアを担っていく覚悟はあるのか。そう問われているようにも感じ、恐ろしさが増した。
 同時に、2次審査の面接では、編集長となった場合の、ライターとしての私自身の今後も問われ、この時はじめて、30年近く携わってきたライターという仕事に区切りをつけ、編集長として生きていくのか、真剣に自身に問いかけることになった。次期編集長になることが、それだけリアリティに満ちたものになっていたのだ。
 正直、私自身のなかには「まだ書きたいことはある」との思いがあった。アジアやイスラム世界で取材してきた数々のことを、追々本にして発表しようと思っていたからだ。それは編集長になった後でも可能なことだと考えていた。また偶然にも、そのとき、某スポーツ誌との出会いが生まれ、新たな仕事がはじまったばかりのときでもあった。しかも、このスポーツ誌との仕事は、非常に面白く、不思議と心に歓びがわいてきた。ある意味、スポーツには戦争と対峙する何か、平和とか、人と人とを歓びでつないでいく何かがあったからかもしれない。
 しかし、2次審査の会場には、「この雑誌の編集長、かつ社長を務めるということは、自身のライターとしての活動の余地を残しておけるほど甘いものではない。24時間・365日走り続けなくては、フォトジャーナリズム誌を守っていけない」という空気が充満していた。
 編集長か、ライターか。戦争か、スポーツか。あるいは、アジアやイスラム世界の人々の暮らしか──。もう一度、腹をくくらなくてはならなかった。本当にどちらかしか選べないことなのだろうか。結果は、天命を待つのみだった。

 2014年1月20日。次期編集長に関する審査結果と審査内容が、その写真ジャーナリズム誌の誌面上で詳しく発表された。新編集長に選ばれたのは、なんと、その雑誌社の31歳の編集者だったのだ。面接時にすれ違った彼女だったとは。定期購読者の過半数の票を得たという。そして私は定期購読者の3分の1の支持を獲得して2位だったことを知ることになった。
 正直、残念だったようでもあり、ホッとしたようでもあり、なんとも表現しづらい気持ちだった。誌面に書かれていた私の作品に対する2次審査員の方々のコメントも、自分の事なのに、他人事のようにも感じられて不思議だった。ただ、これほど多くの定期購読者の方々が共感してくださったことに、私自身、励まされる思いになった。また2次審査では、14人もの審査員の方々による約3時間に及ぶ審査が行われたことも知り、頭が下がる思いになった。
 それでも結果としては、力及ばずで、私は新編集長になれそうで、なれなかったわけだ。この手でふわっとつかみかけた空気のようなものが、指の間から、音もなく、落ちていったようだった。
 新聞紙面でも、小さな記事で審査結果の内容が取り上げられていた。新編集長の写真も掲載されており、そこに自分がいたかもしれないと思うと、ちょっぴり複雑な気持ちになった。その思いは、時間がたつほどに、ふくらんだり萎んだりしていった。審査結果の1位と2位の差は歴然としていた。かたや表の人となり、かたや「志」に参加できなかった人となる。今まで表には出ず、2番手として動くことが好きな私だったが、はじめて「一番じゃないとダメなんです」という気持ちになった。何かを成し遂げるためには、トップに立たなくては、かなわないこともあるのだ。
 そして選ばれた彼女は、2014年9月より、正式に新編集長となった。どうか、新編集長が、そのフォトジャーナリズム誌の「志」を受け継ぎ、新たなるフォトジャーナリズムを発信していくことを願うばかりだった。

 こうして、私の人生に波打ったさざ波は、静かに引いていった。あれほど逡巡して、これからの人生への覚悟を促された日々は、今まで経験したことがなかった。それでも、2位という結果のあとには、以前と変わらない日々がつづいていくだけなのだ。
 しかし、与えられた結果は、受けとめ方しだいで、いかようにも変わっていくのだろう。今なすべきことは、やはりライターとして生きることなのだと、ポジティブに受けとめ、私は改めて新しい一歩を踏み出すことにした。書こうとしていたアジアのこと、戦争のこと、スポーツのことなど、少しずつ表現する日々を再開した。積み重ねてきたライターとしての30年の月日、過去を一度リセットして、ゼロからの再出発、そんな心境だった。フリーライターとして、今まで感じていた限界も乗り越えていこう。そして、私は私で、同じ「志」をもつ仲間をふやしていこう。そう思いを新たにした。発表するカタチ、場所は違えども、何よりも伝えていくことが大事なのだから。
 こうして2015年を迎え、季節は、冬から春へ、そして美しい新緑の季節となった。おかげさまで、2年前に購入したホームページ作成ソフトも、手で触れているうちに使い方が分かってきて、新しいサイトを作ることができた。デザインも内容も一新して、アップデート。
 何も変わっていないようで、じつは大きな心境の変化と前進があったこの2年間。そんなこんなに改めて気づかされ、ありがたさを感じる、“新しい季節”となったのである。