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小さな踊り子

 インドネシアのバリ島をはじめて訪れたのは、かれこれ20年以上も前の1986年のこと。海外旅行の経験も少ししかなかったそのころの私にとって、バリ島は、“神々と芸能の島”と呼ばれていること以外はほとんど何も知らない赤道直下の島だった。ただ“神秘的でエキゾチック”な異空間に迷い込みたい。そんな憧れのような思いで、その未知なる島へと旅立ったのである。

 バリのグラライ空港に降り立つと、モアッとした熱気が肌にまとわりついてきた。当時とても小さかった空港から外へ出ると、こんどは熱帯の花の甘い香りがムッと鼻をついてくる。今まで見たことも感じたこともない強烈な一瞬、一瞬。熱く、甘い香りに包まれた南の島。それが私のはじめてのインドネシア、バリ島の第一印象だった。
 そんなバリでの日々は、とても刺激的な魅力に湛えていた。1日に何度となく捧げられるお供えもの。そして、お線香の煙。いたるところにあるヒンドゥー寺院。その象徴である割門。神さまのために踊るという芸能…。そして、そこで生きる人々、優しい微笑みを浮かべながらどこかひかえめなバリ人も、また異空間で暮らす人々のように見えた。
「バリでは、芸能の家族は、代々芸能を受け継ぎます。踊りの家は、代々踊り。音楽の家は、代々音楽。そして木彫りの家は、代々木彫りです」
 旅のガイドさんの説明にも、ただただ感心するばかり。この島は芸能・芸術に生きている人ばかりなんだと錯覚するほどだった。
 さっそくレゴンダンスが見られるというレストランに行くと、入ったとたんにゾクッとした緊張感が走った。南国特有の甘い香りが漂う薄明かりの店内には、バンブーのテーブルと椅子がならび、テーブルごとにロウソクの火が灯されていた。そしてテーブルにつくまでの間に、ガムラン奏者のドロッとした視線と出くわし、驚きと当惑の思いにかられたのである。ああ、ここはどこ。ここは、南海に浮かぶ「最後の楽園」、バリ…。
 食事をしていると、カントゥンカントゥン、チャンチャン…。脳天に不思議な音階の旋律が直撃してきた。ガムラン演奏のはじまりだ。ガムランとは、青銅製のドラ、竹・木・金属製の鍵盤打楽器、太鼓など何種類もの打楽器で構成されるアンサンブルのこと。その音色は、一瞬にして人々を不思議な異次元空間へと誘う。
 やがて指をそらして小刻みに振るわせ、腕や手を直角に曲げ、目をギョロッと巧みに動かしながら踊る、不思議な踊り子が登場した。二人の少女がおそろいの宮廷衣装をまとって踊るレゴンダンスである。その夜は、まだ年端のいかない可愛らしい少女たちの舞だった。ああ、なんて艶やかで幻想的なの。ここはどこ。ここは、神々と芸能の島、バリ…。こんな世界があったなんて。
 どうやら、はじめて見るきらびやかな衣装に身をつつんだ少女の優美で不思議な踊りは、知らず知らずのうちに私の心の奥底にしみ込み、何年経っても忘れられない甘美な記憶をのこしたようだった。

 こうして、まるで異空間に飛び込むような思いだったバリへの旅も、回を重ねるごとに五感がなれてきて、すっかり身近な存在になった。熱帯の景色も華麗なるバリ文化も、そしてバリの子どもたちが踊りを練習する姿も、もはや異次元空間でのものではなくなっていった。
 90年代の終わりころ、本の取材のために泊まっていたウブドのロスメンの子どもたち4人姉妹も、みんな踊りが大好きだった。当時まだ小さかったコマンが学校から帰ってきたあと、
「あのね。これから踊りの練習なの…」
 と、嬉しそうにお稽古へ通ってゆく姿をよく見かけたものだ。高校生の長女のティニはウブドで有名な歌舞団に所属していて、日本公演ツアーにも参加したのだという。そんなティニおねえちゃんは、コマンたち妹にとって憧れの存在。羨望のまなざしで、ティニの日本公演の話に聞き入っていた。
 一方、旅人の私は、そんな“芸能の村”ウブドを楽しもうと、夜な夜なバリ舞踊めぐりに出かけていった。レゴンダンス、バロンダンス、ケチャダンス、トペン…。衣装の華やかさ、表現力、物語性など、どれをとっても見る人をあきさせない何かがあるバリ舞踊。その幻想的な美しさは、何度見ても、変わらず甘美な記憶を刻んでいったのである。
 ところでこのバリ舞踊、もともとヒンドゥー教の神事で、神に捧げるために寺院や宮廷で踊られていたもの。14世紀、東ジャワで栄華を誇っていたマジャパヒト王朝で花開いたヒンドゥー・ジャワ文化に、そのルーツを見ることができる。やがて16世紀はじめ、マジャパヒト王国がイスラム勢力の侵攻にあい崩壊すると、バリへ逃げた王侯貴族や僧侶たちとともに、その文化もそのままバリへと移行して、バリ王朝文化として大輪の花を咲かせてゆくのだった。さらに20世紀となりオランダによる植民地化がすすむと、こんどはバリ島に魅せられた多くの欧米の芸術家たちが次々にやってきて、バリのヒンドゥー文化に新たな息吹を吹き込んだ。有名なケチャダンスもこのとき誕生した舞踊だった。こうして、ジャワの宮廷にはじまる芸能は、今や世界中の旅人の心を癒すバリの伝統舞踊へと昇華した。

 2004年、再びバリを旅していた私は、何年かぶりにウブド王宮を訪ねてみた。すると、その日はちょうどバリ舞踊のレッスン日らしく、中庭の舞台小屋はサロンをまいた子どもたちであふれかえっていた。何年経っても変わらないバリの日常。なかには3~4歳の小さな子どもまでいる。まさに21世紀生まれの子どもたちなのだ。そして、みな手足や腰の基本的な動きをみっちりと叩き込まれていた。このバリ舞踊の基本姿勢をマスターするまでには、1年ないし2年かかると言われている。肘を肩の高さでキープする姿勢は、かなりの鍛錬が必要のようだ。そんななか、小さな子どもたちは誰もが真剣そのもの。レッスンの順番待ちしている子どもたちはきちんと正座し、おしゃべりをする人など一人もいない。
 そうなのだ。世界中の旅人を魅了しつづけるバリ舞踊は、バリの子どもたちにとってもまた永遠の憧れなのである。神さまのためにより美しく踊ろうと、そして華やかな舞台に立つ日を夢見て、心に踊りの魂を刻みながら、練習に練習を積み重ねているのだった。
 バリの踊り子との鮮烈な出会いから20年以上。知らず知らずのうちに、“神々と芸能の島”バリ、その甘美な記憶は、私をかの地へと引き寄せていったようだ。ふと思えば、あのときの小さな踊り子はどうしているのだろう。今や少女は大人になり、立派な踊り子として活躍しているのかも。あるいは母親になって、その子どもがバリ舞踊をはじめているかもしれない。受け継ぎ、受け継いでゆくバリの芸能…。そんな確かな時の流れを感じつつも、懐かしの写真を見ていると、時を超えて変わらない小さな踊り子たちの優美で幻想的な舞、そして踊り子の思いへと、心が馳せるのである。 
(2007.12.23, 新井容子)