
私は先の戦争には直接関わりのない時代に生まれてきたけれど、謝罪する宿命を受け入れ、実際に謝りつづけてきた。そのことを、安倍首相の戦後70年談話を聞いて改めて思い出したのである。
ライターとして、インドネシアを取材するようになり早20年の月日が流れていた。インドネシアは、第二次世界大戦時、日本が資源を求めて侵攻し植民地支配した国。何度も足を運び、交流を重ねるなか、行く先々で当時のことを語る人々と出会った。
東ジャワでは、「日本の敗戦後に、日本軍とともに村人全員が玉砕した」という農村を訪ねると、「なぜ全員死んだのか、その理由は未だに解明されていない」と、現在その村で暮らすジャワ人の友人が語ってくれた。すべてが秘密に包まれているのだという。玉砕という名のもとに集団自決したのではあるまいか。そんな想像がめぐった。
「でも、今でも日本軍の遺跡があるよ」と教えてもらい、案内してもらうことになった。村にある小さな山を登ると、頂には要塞・見張り台が残っていて、そこからジャワ島の南側にひろがるインド洋がよく見えた。海岸から数キロ奥まったところにある山だったが、驚くほど、南方の海が見渡せる、じつに見晴らしのいい場所だったのだ。そして、先の戦争に思いを馳せながら南の空と海を静かに眺めていると、不思議にも、はるか彼方から近づいてくる戦闘機や軍艦の姿が鮮明にイメージできたのである。戦時中の、ツーンと張り詰めた空気に包まれたかのような思いになったとでも言おうか。一瞬、私は時空を超えた感覚を覚えたのだった。すると、「この要塞を作ろうとしたのはニッポン人。ロームシャ(過酷な重労働を強いられた人々)はインドネシア人」と、要塞まで案内してくれたジャワ人の友人が、急に強い語気で話し出したのである。先ほどまでとても優しい雰囲気の友人だったのに。その末の玉砕だったのだと。その言葉に、その場の空気は、さらに緊張度が増していき、私は、なんともやり場のない苦い思いになっていった。そして、自然と謝罪の言葉が口から出ていたのである。
バリ島のある村では、インドネシアの独立戦争を記念する塔が建てられており、「第二次世界大戦のとき、日本軍はやってきて、あそこで見せしめに一人の僧侶と3人の村人の首を切ったんだ。そのことはみんな覚えているよ。いや、忘れないためにあの塔をつくったんだよ」と村人に教えられた。戦争の悲劇、同胞の残虐さに私は胸が苦しくなり、思わず涙がこぼれた。そして、心よりの謝罪をしたのである。すると村人は、「なぜ泣くの?あなたの責任ではない。昔のことは忘れてはイケナイけど、年寄りたちも今の日本人のことは好きだよ」と言ってくれたのだった。
そう、確かに私の責任ではないかもしれない。それでも私はその後、過去の悲劇を語る人と出会うたびに謝りつづけてきた。インドネシアの人々と真の友人になりたいと思えば、相手の悲しみや苦しみは自然と自分事となる。同じ人間として、「謝罪」は自然と沸き上がってくる気持ちだった。犠牲になられた尊い命への祈りでもある。その積み重ねから生まれた相互理解と友情は、今や私にとってかけがえのない「宝」となっている。
その「宝」の存在、ありがたさも、戦後70年談話を聞いて、改めて思い出したのである。