
その夜、私は、22時すぎに国会前についた。
別の仕事が長引いたため、こんな時間になってしまったのだ。それでも、永田町の駅を出て地上にあがると、「安保法案」反対のコールが響いてくる。まだまだ多くの人が残っているようだ。雨・雨・雨の1日だったが、雨もようやくあがっていた。
国会前に近づくと、道路には、物々しい雰囲気の装甲車がずらりと並んでいた。警察官の数も圧倒的で、デモ参加の人々がそれ以上前に進むのを阻止しているようだ。そして歩道には、想像以上に多くの人が残っていて、「安保法案」の廃案を訴えていた。まさにその日、2015年9月17日(木)の夕方、法案は、参議院特別委員会で可決されたばかり。与野党の攻防の場は、今後、参議院本会議に移るということだった。つまり……。「安保法案」の成立を阻止したいデモ参加者にとって、その夜は、最後の山場ということなのだ。
22時半すぎ、まだまだ大勢残っているデモ参加者に話を聞くことにした。
前日から2日連続で来ている人、「黙っていられないでしょ」と10回以上参加している人、親に行ってこいと言われた人……など、組織や団体に属さないふつうの人々が大勢集まっていた。そんななか、『3・11』(東日本大震災)以来、「責任を感じて」、時おり一人でデモに参加しているという77歳の男性と出会った。
責任を感じて? 一体、何に責任を感じているのだろうか? すかさず私は質問した。すると、その男性は、滔々とその責任について語り出したのだった。
「僕はね、もう77だけどね。『3・11』があったでしょ、津波、原発の。あれ以来、時おりデモに参加しているの。責任を感じて。だってさ、嘘だらけだもん、政府が言っていることは。原発の安全神話がデタラメだということが、福島にね、行けばわかるよ。それなのに、俺たち年配者がね、あんな危険な原発のことを知らなかった。あの爆発のときは本当にびっくりしたよ。無知じゃすまなかった。
だから、とんでもないことが、今起きてしまったの。「安保法案」が通ってしまった。ま、通るよ。だけど、70年前、第二次世界大戦でね、あれだけ大きな犠牲を出しながら……。310万の方々が亡くなって、原爆も2回落とされてね。よその国にも、何千万の人に、迷惑かけたでしょ。それでようやく、70年前に、日本人は、平和憲法を握ったの。もうこれ絶対手放さないと思って安心していた。
それなのに、安倍さんみたいな人が出てくるというのは考えられないよね。その責任よ。こんな時代がくるとは思わなかったよ。まさか、あんな化け物が復活するとは。軍国主義が甦るなんて、思わなかった。その驚き。ズバリ言うと、安倍さんみたいな人に、日本はまんまと乗っ取られてしまったじゃない。こんなこと、考えられないよね。だから我々はここで奮起しなきゃ。安倍さんを倒して、原発をなくし、平和憲法を取り戻すまで、僕は死なないつもりだよ。
そして、若い人たちが目覚めて、選挙に怒りをぶつけてくれて、本当に人々のことを考える本物の政治家が出てきてほしい。この願いで、デモに参加しているんだよ。そういう政治家が出るまで、10年がんばろうと思っている。
昨日もね、デモにきて、警察官の人たちにワーっと転ばされて、いま絆創膏貼っているの。学生さんたちとお巡りさんたちがぶつかったところに、巻き込まれちゃったのよ。でもこっちも歳だから、真ん中に入るとかえって迷惑かけるからね。だからね、若者には本当に目覚めてほしい、怒ってほしいよね。そう、若者と一緒になってやるよ。あと10年はがんばるつもりだよ」
戦後70年、日本人が守りつづけてきた平和憲法──。
それを解釈改憲によって、平和主義の根幹をくつがえそうとする政治家を生み出してしまったことへの責任を感じていると、言うのだ。“政府の嘘”に気づかず、安心しきっていたこと、また真実を知らなすぎた自分の無知をも、悔いていた。そんな彼は、現在77歳だという。つまり、終戦を迎えた70年前は7歳ということになる。当時のことを覚えているのだろうか。
「僕は小学1年生だった。親たちがみんな戦争に行って、帰ってきて。東京出身だけど、じつは親は責任ある会社の人間でもあったんだよ。名前は言わないけど。うちのオヤジは電通で。その前は朝日新聞で。それも上のほうにいる人間で。だからなおさらよ。電通、朝日新聞も、初期のころはね、食べるために必死だったんだけどね。悪いことを見逃すようになり、戦争を後押しするようになって、結果的に、魂を失って、若い人たちを犠牲にするような時代を作ってしまった。だからなおさらなんだよ。第二次世界大戦での失敗を、二度と繰り返さないために。いま甦ってしまった化け物を見逃してはいけないんだ。平和憲法を、絶対手放したらいけないんだよ」
そう熱く語ってくれた。そして、最後に「握手しよう」と言われ、77歳のデモ参加者と握手して別れた。
戦争と、戦争を支持し賛美したメディアの責任──。
国会前デモの取材中に、思いもよらず、先の戦争での「プロパガンダ」について聞くこととなったが、私にはふと思い出すことがあった。というのも。戦争になったとき、自分だったらどうしただろうか。生きるために、戦争プロパガンダの仕事を引き受けただろうか? たとえ生活が困窮しようとも、戦争を支持する仕事だけはできないと、断っただろうか? と、つい数年前に自問したことがあったからだ。
「進め一億火の玉だ」
「欲しがりません勝つまでは」
「おねがひです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」
これらは、70年前の、戦時下において国民の戦意を煽るためにつくられた国家報道宣伝の一例であるが。じつは、その制作を担った専門家の一人として名高い新井静一郎氏に、私は一度だけ(1987年に)、仕事上でお会いし言葉を交わしたことがあったのだ。私が電通傘下の広告プロダクションでコピーライターとして働きはじめたころのことである。
当時は、新井静一郎氏が戦争のプロバガンダ広告を制作していた人などとは知るよしもなかった。だが、数年前に偶然読んだ本『戦争と広告(馬場マコト著)』からその事実を知ることになる。にわかに一度しかお会いしたことがなかった新井静一郎氏の姿が脳裏に甦り。直接知っている人が、戦時下、戦争宣伝を制作する中心人物だったとはと、大変驚いたのだった。では、自分だったらどうしただろうか──と。こうして自問が始まったのである。
元々、森永製菓でコピーライターとして活躍していた新井静一郎氏。太平洋戦争開戦後は、菓子類の自由販売ができなくなり、広告の仕事もなくなってしまう。そこで新井氏は、当時、資生堂で活躍していた広告クリエイターとともに「報道技術研究会」を結成する。そして、大政翼賛会と組んで国家報道宣伝の制作に携わるようになるのだ。その活動は敗戦までつづく。そして戦後は、電通に入社。日本の広告界をリードした一人として知られるようになる。
『電通報』によると、新井静一郎氏は、当時の気持ちを、このように吐露している。
「その頃、広告の仕事は、まったく絶望的であった。仕事はなくなってくるし、企業の広告部は開店休業となるし、なかには閉めてしまうところさえ出て来た。私達は、広告の仕事はなくなっても、報道技術にしがみついていたかった。すると残されているのは、国家報道という新しい分野だけだった」と。そして、「報道技術研究会」の発足にあたり、
「私共の唯一の誇りは打算を離れた奉公の熱意であります。国家報道への技術的実践を通じて、国家のむこうところに貢献せんとする一片の気概であります」と語っている。
広告クリエイターとして生きのこるためには、戦争宣伝の仕事をするしか他に道はなく。そしてやるからには、国家のために誠心誠意貢献しよう、という気持ちだったようだ。そこには、戦争を肯定するとも、否定するとも、いずれにも意識が向いていないようだった。ただプロとしての技術を生かせるのなら、頼まれることはなんでもやった──ということなのだろう。
そうなのだ。ある意味、広告クリエイターが、プロとして広告主の依頼・要望に応えることは、当たり前のことと言えよう。今も昔も、それは同じであろう。とはいえ、その国家報道宣伝が、国民の戦意高揚に大いに役立ち、それがのちに多くの犠牲者を生み出すことにつながるとは、当時彼らは、想像もしなかったのだろうか。いや、あの当時、誰もそのような未来がくることを想像できなかったのだろう。事実、「報道技術研究会」に対して、「無邪気な戦争協力者」と評する者もいたようだ。
では、自分だったらどうしただろうか──。
あの当時、あの状況下で、国家報道宣伝の仕事が舞い込んできたら。今でこそ、戦争は絶対反対! 戦争に加担する仕事は絶対しない、と断言できるが……。経済的に厳しく、それしか仕事がなかったら、どうしただろうか。そう自問して、ぐるぐる思いを巡らして、結局、私は答えに窮したのである。
そう、その数年前の出来事を、国会前デモの取材を通して、私はふと思い出したのだった。
そして、たしかにあの頃、戦時下での報道──「戦争と新聞」の関係も同じだった。1931年に満州事変が勃発したころから、大手マスコミは戦争報道へと姿を変えていく。積極的に戦意高揚に加担する動きが強まっていったのだ。元々通信社でもあった日本電報通信社(電通)は、自社存続のため国策に肩を寄せるようになる。つぶれそうだった読売新聞は、反軍から戦争賛美に転じて業績を持ち直す。朝日新聞も、軍部批判から戦争協力へと論調を変えると、新聞の部数が急増したという。つまり戦争報道は、新聞社が生きのこるための「ひとつの解」だったのである。そして読者も、その戦争プロパガンダを好んで読んだということになる。
いやはや、70年前の出来事は、決して遠い過去の話ではないのだろう。他人事でもないはずだ。出版不況、印刷メディアの存亡の危機にある今のご時世ではなおさらではないか。そんな思いがふつふつと湧いてくる。第二次世界大戦での失敗を、二度と繰り返さないためにも、やはり私たちマスコミの人間も、今一度、自らが寄って立つところを見つめ直す必要がありそうだった。日本が「戦争ができる国」にカタチを変えようとしている今、メディアは、何を報道し、何を伝えるべきか。これもまた大きな課題になろうと、改めて教えられたような気持ちになった。
国会前デモは、23時半近くになっても、人々が帰る雰囲気がなかった。
「民主主義ってなんだ。これだ!」
のコールがつづいている。そして、
「野党はがんばれ、野党はがんばれ!
野党はがんばれ、野党はがんばれ!
野党はがんばれ、野党はがんばれ!」
のコールがはじまった。その声が響き渡るなか、私は、終電一本前、永田町23時52分の地下鉄に乗り、家路についた。
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