
ようやく帰ってこれて、よかった。
アンコールの古代の森と神秘的な遺跡群の中を駆けめぐる、『アンコールワット国際ハーフマラソン』──。何度走っても、そんな思いになるのは、古代王都アンコール・トムの東側にある城門、「勝利の門」の巨大な観世音菩薩像が見えてくるときだった。そこは、その名の通り、アンコール王朝時代、戦いに勝って帰ってきた兵士がくぐる凱旋門であるが、私も無事ハーフの旅から帰還できたような気分になり、胸が熱くなるのだった。
実際のところ、アンコール・ワット寺院前からスタートして、左回りにぐるりと遺跡群をめぐってきたレースは、ちょうど15km地点を過ぎたあたり。レースとしては、これからが自分自身の身体との闘いになるところだが……。とにもかくも、穏やかな微笑みを湛える菩薩さまに迎えられて、古代王国に足を踏み入れるかと思うと、不思議な安堵感がわき起こってくるのである。
とくに今回のレースでは、12kmを過ぎたあたりから、右ひざ横の筋肉に痛みが発生していたこともあったのだろう。「勝利の門」が見えたときは、心底ホッとした。ここを過ぎれば、のこり6km。古代都市の中をめぐる、とても眺めのいいコースになる。その風景を楽しみながら、一歩一歩、前へ進めば、なんとかゴールできるのでは。そんな思いになった。
ところで、『アンコールワット国際ハーフマラソン』は、「対人地雷の使用禁止」をテーマに、参加費の一部が地雷犠牲者の自立や義手義足の製造支援などに寄付されるチャリティーマラソンである。障害をもつ車椅子ランナーと健常者とが、共に走るのも大きな特徴だった。第21回を迎えた今回のレースも、21kmの旅の途中で、何度も車椅子ランナーたちと出会い、声をかけ合い、ハイタッチをして走った。彼らが、両手で車輪を懸命にこぎながら進んでいる姿は、共に走っている私たちにも大きな勇気をくれた。ことに自分の足が痛みはじめてからは、車椅子ランナーの姿を見るほどに、気持ちが引き締まり、私も痛みに負けずにガンバらなくては、との思いがふつふつとわいてきた。がんばれ、がんばれ。きっと走れる──。
こうして前へ前へと走りつづけていると、不思議にもいつしか足の痛みが抜けていった。そしてアンコール・トムの中心にある巨大仏教寺院バイヨンをぐるりと周り、古代王国の出口、南大門に向って黙々と走った。目指すゴールは、アンコール・ワット寺院前。アンコール・トムの南側の城門を抜けたら、もう少し先だ。そう、あと少しなのだ。しかし、あと少し、と思ってからがさらに長かった。
おそらく他のランナーたちも同じように感じていたのだろう。高木が立ち並ぶ森の道を進んでいくと、すでに走るのをあきらめて歩きはじめている人たちが目立つようになってきた。また、別の車椅子ランナーの後ろ姿も見えてきた。その姿はどんどん近づいてくる。かなりスローダウンしているようだった。あと2km弱だから、ガンバレ! 私は、思わず背後から、心の中で声援を送った。すると驚いたことに、その車椅子ランナーが、ふっと私のほうを振り返って微笑んだのである。20代か30代前半くらいの男性だった。はたして彼は、私の声なき声、声援に気づいたのだろうか。
そして車椅子ランナーに追いついた私は、いつものようにハイタッチをしようとして手を差しだした。すると、また驚いたことに、グレーの手袋をした彼の手が私の右手をぎゅっと握って、力強く握手してきたのである。私も彼の手を握りかえし、そっと握手に応じた。アンコールの古代の森を共に走ってきた者同士、自然と心が和んだ。そうして、私はふたたび走り出そうとして、その手をはなそうとした。が、その車椅子ランナーは、ぎゅっと握ったまま手をはなさそうとしなかった。
えっ?! ほんの数秒だったけれど、手と手を取り合って伴走するカタチとなった。ふっと生まれた一瞬のコミュニケーション。彼はあの時、何を思ったのだろうか。やがて、すぅっと手がはなれたので、私は先に行くねと目でメッセージを送り、アンコールの森を走り抜けていった。
こうして私はなんとかアンコール・ワット寺院前にたどり着き、沿道で応援する人たちの笑顔や歓声に包まれてゴールした。21kmの旅が、静かに、そして穏やかに終わった。おかげさまで、無事、走る切ることができたことにホッとし、そして今年も『アンコールワット国際ハーフマラソン』に参加できたことに感謝した。やはり、この大会はいい。静かな優しさに満ちてくる、そんなハーフの旅だった。
それにしても、ぎゅっと握られたあの手の感触は、日本に帰国した後も、いつまでもいつまでも、この手に残っているような気がした。彼はいったい何を私に伝えようとしたのだろう。そして、無事、完走することができただろうか。
今思えば、レース後に彼を探して話しかけてみればよかったのかもしれない。そうちょっぴり後悔していると、なんだか彼の地に忘れ物をしてきたような気分になってきた。いやはや、これでは来年もまたアンコールへ戻らなくてはならないではないか。温かなぬくもりが残る、大切な忘れ物を探しに……。








