
驚いたことに、第22回『アンコールワット国際ハーフマラソン』のコースとスタート・ゴール地点が、大会1週間前に突然、変更となったのである。大会前日に、ゼッケン受け取り会場で偶然知り合ったドイツ人男性から、私はそのことを聞き知ったのだった。
彼がいうには、大会当日、フン・セン首相による仏教式典(政府行事)が、アンコール・ワット前広場で急遽開催されることになったため、レースのスタート・ゴール時点が、アンコール・ワット前ではなく、アンコール・トムの中心にあるバイヨン寺院の北側に変更になったとのことだった。大会会場へ行くルートも、アンコール・ワット周辺の道路が、当日すべて通行禁止となるため、大きく迂回してバイヨン寺院まで行かなくてはならないらしい。
「いつもより30分早く、ホテルを出発しなくては間に合わないんだよ」と教えてくれた。
ええ? こんなことがあっていいのだろうか。毎年、開催されている国際ハーフマラソンが、フン・セン首相の一言で、1週間前にコース変更になるなんて、まさにカンボジアの今の政治状況──、独裁色を強めるフン・セン政権のありようを表しているかのようだった。しかも、マラソン大会のメインコース&会場である、アンコール・ワット周辺が、まったく使えないのである。ま、フン・セン首相のことなので、仕方がないと受け止めるしかなかったが、やはり残念な気持ちになった。
大会当日、夜明け前の午前3時半に起床した私は、早朝4時40分にシェムリアップの街中にあるホテルを出発し、トゥクトゥクで大会会場へと向かった。ハーフマラソンのスタートは午前6時だったので、会場まで迂回のルートで行っても十分間に合うだろう。日の出までかなりの時間があるため、街は依然として静まり返っていたが、トゥクトゥクは北に向かって快調に走り出した。まるで活動をはじめているのは、マラソン大会へ向かう人たちだけのようだった。
そうしてトゥクトゥクは、アンコール遺跡エリアに向かうメイン通りを途中で東に曲がり、大回りしながら、遺跡群の方へ進んでいった。その頃になると、道沿いには、ポツンポツンと、朝の準備をはじめる人が動きはじめていた。掃除をする人、朝食の屋台の準備をはじめる人……。そして、そんな街の様子を眺めながら、私は、何ともなしにふと西の空を見上げると、なんとそこには、大きな満月が煌々と輝いていたのである。
今宵は満月だったのか……。
あまりにも大きなお月様に遭遇し、驚いたような、嬉しかったような。どうやら、その月は、今年、最も地球に近づいた満月、スーパームーンのようだった。しかも、夜明け近くの満月は、西の空の低いところに浮かんでいて、より大きく明るく輝いて見えたのだ。
思えば、その朝、いつもより早くホテルを出発し、またいつもの深い樹林がつづく道とは異なり、視界がひろがる道を通ったからこそ、偶然、この大きな満月に出会えたのかもしれない。ということは、この幸いも、フン・セン首相のおかげということになるのだろうか……。ともあれ、優しい月の光に包まれ、私は、なんとも穏やかな平和な気持ちになっていったのである。
アンコール・トム内のバイヨン寺院の北側エリアにつくと、もう会場は多くの市民ランナーたちで埋め尽くされていた。78の国と地域から1万人を超える参加者が集ったらしい。まだ世が明けぬ暗闇のなか、人影だけがうごめいていた。
そしてアンコールの森にも、東の空から日が昇り、6時28分──。
約30分遅れで、ハーフマラソンがスタートした。今年は、突然のコース変更があったため、バイヨン寺院の北側からスタートし、いつもと逆回りで、アンコール遺跡群をめぐることになった。象のテラスを通り、王のテラス前で東に曲がり、そのまま勝利の門へと進む。その後、タ・プローム、バンテアイ・クディなど、アンコール遺跡群の「小回りコース」を右回りに駆け抜け、プラサット・クラヴァンの先、シェムリアップ川を越えたところで折り返し、同じコースを戻ってくるレースとなった。
個人的には今回、膝痛を抱えての参加となったため、ハーフを完走できるかかなり不安だったが、いざ走り出すと、膝の痛みをまったく感じることなく、いつものゆっくりペースで走ることができた。アンコールの森にひろがる、神秘的な空気に包まれて、心と体が癒されたのだろうか。不思議なくらい、身体的な違和感をどこも感じることなく、駆け抜けることができたのだ。ひょっとして夜明け前に遭遇したスーパームーンからパワーをもらったのかもしれない……。
ともあれ、今回も、アンコール遺跡群の中を走る、21キロの旅(ラン)を、無事、走り切ることができたことにホッとした。何よりも道中、沿道で、ハイタッチをしながら応援してくれた、地元の子どもたちの笑顔が、嬉しく、まるでスーパームーンのように輝いて見えたのだった。そうそう。やはり、この可愛らしい笑顔の力が大きかったに違いないと、ほっこり、優しい気持ちになる。大会直前に突然のコース変更があってアンコール・ワット前を走ることができなかったけれど、この笑顔がまた見たいから、来年もまたこの『アンコールワット国際ハーフマラソン』に戻ってきてしまいそうだ。