
約3000年もの歴史を誇る、ヒンドゥー教最大の聖地であるバラナシに到着したのは、深夜のことだった。インド北部にあるこの街の、12月の夜は寒く、こごえながらガンジス河のほとりにあるゲストハウスについたのである。
翌朝、少しゆっくりめに起きた私は、さっそく部屋の窓から外の景色を眺めると、すでに朝日が昇っていて、ガンジス河の水面に、キラキラキラキラ輝くオレンジ色の光の道ができていた。なんて幻想的なのだろう。ヒマラヤに源流をもち、長さ約2510キロ、インド北部を流れるこの大河は、早朝から、沐浴し祈りを捧げる人々の姿が多く見られるという。沐浴により、すべての罪が浄化され、解脱できると信じられているからだ。ヒンドゥー教徒にとって、ガンジス河は、まさに「聖なる川」なのである。そして私も、一度はこの「母なる河」を訪ねてみたいと、長い間、思いを募らせていたのだった。
その憧れのガンジス河に、ついにやってきた。東南アジアにひろがるヒンドゥー文化のルーツ、「聖水」の源流の地にようやくたどり着いた──。窓の外にひろがる大河の光景を目にし、にわかに感動がわいてきた。
思えば、この聖なる大河の水の一滴に、私ははるか昔より、何度も何度もふれてきたのだった。ある時は、インドネシアのバリ島の寺院で。またある時は、カンボジアの大地を潤すシェムリアップ川の水辺で。それは、時空を超えて届けられる、聖水の不思議とでもいうべきだろうか。
そう、私がはじめてガンジス河の聖水にふれたのは、バリ島にあるヒンドゥー寺院の創立祭「オダラン」に参加したときだった。「聖水の宗教」とまで呼ばれる、バリ・ヒンドゥー教。儀礼の際、祈りを捧げる人は、清めの象徴である「聖水」を、祭司によって、頭にふりかけてもらい、次に手にいただき一口飲むが、
「この聖水は、祭司(ブラフマナ)が瞑想し、印を結び、鈴を鳴らして、マントラ(真言)を唱えながらガンジス河を呼ぶことによって、香の煙にのって祈りが天に届き、神から聖水が与えられるんです。ガンジス河と同じ聖水がつくられるんですよ」
と教えられたのである。
つまり、霊力宿るバリ島の「聖水」は、はるか何千キロも離れたところにある、ガンジズ河の聖水と同じものだというのだ。ほぉ、思わず胸が高鳴った。そうなのだ、祈りとは、信じるとは、そういうことなのだろう。ヒンドゥー教徒にとって、あらゆる罪や穢れを浄化してくれると信じられている、ガンジス河の聖水。そのガンジス河の聖水をいただくことこそが、憧れであり、尊いのである。おかげで私も、バリ島にいながらにして、ヒンドゥー寺院の儀礼に参加したときは、何度も何度もガンジス河の聖水をいただくこととなった。
古よりヒンドゥー文化が伝わるカンボジアにおいてもしかりだった。壮麗なアンコール遺跡群がひろがるシェムリアップ。かつて華麗なるアンコール王朝が栄え、古代インドのヒンドゥー教の宇宙観が反映された都城が次々と建立された。そして人々は、アンコール地域の北東約40キロのところにあるクレーン山を、聖山ヒマラヤと見なし、そこから流れでるシェムリアップ川を、インドのガンジス河と重ねたのである。この聖なる川の水は、アンコールの大地を潤し、豊かな実りと平和をもたらすのだという。こうして私は、カンボジアを旅したときも、シェムリアップ川の水辺で、ふたたび「ガンジス河の聖水」にふれたのだった。
そして今回、はじめてインドを訪れ、ついに「聖水の源流」ガンジス河にたどり着いたのである。いや、「母なるガンジス河」にようやく還ってこれた──という思いなのかもしれない。朝食を食べたら、さっそくガンジス河のガート(沐浴場/河まで続く階段)を訪ねてみよう。そして、聖なる大河の水の一滴にふれてみよう。積年の夢が、もうすぐかなう。

