
2年ぶりに『アンコールワット国際ハーフマラソン』に参加した。ちょうど2年前の10月、肺に大きな影が発見されたこともあり、この2年間、ほとんど走っていなかったので、久しぶりのハーフというわけだった。
そう、あれは2年前の10月末のこと。区の健康診断で受けた肺がん検診の結果が送られてくると、『判定区分:E1』、至急、精密検査が必要です──、との内容だったのだ。この「E1」とは、「肺癌の疑いを否定し得ない」という意味いらしい。そして、さらに「結果指導のご案内」という用紙が同封されていて、「今回受診されました検診の結果について、医師よりご説明・ご案内をさせていただきます」と、説明されていたのである。
一瞬、何が起こったのかわからず、呆然とした気持ちになったものの、さっそく、結果指導を受けに行くことにした。すると、区の医療センターの女性医師が、淡々と私の肺がん検診の結果を説明しだした。要は、肺に1cmほどの影ができているので、すぐ精密検査を受けたほうがいいという話だった。しかも影のある場所がやっかいな位置にあると。医師の話、表情から推測するに、なんだか私は死ぬかもしれない状況だということが、伝わってきた。
ううん、それは困った。親より先に死んだら、親が悲しむだろうなぁっと、思いつつ……。
「先生、今から1ヶ月の間に、ハーフマラソン2本、エントリーしているのですが。肺に影があるということは、走らないほうがいいということですよね?」と、私は質問したのだった。
そうなのだ。約10日後に、『ねりま光が丘ロードレース』、1ヶ月後に『アンコールワット国際ハーフマラソン』に出走する予定だったのである。すると、医師は、
「走っても大丈夫よ。肺が痛いとか苦しくなることはないから」という。
ええ? 大きな影ができていても苦しくならないのですか?
「そういう症状じゃないから」と、なんとも曖昧な返事。そして、
「ま、ハーフ走ったら、肺の手術をして、手術が成功したら、フルマラソン完走ね」と、その医師が笑顔で言ったのである。ええ? そんな……。
「いや、そういうお涙ちょうだい物語は、好きじゃないんで」と、私は、瞬時にフルマラソンを走ることを拒絶した。フルだけは、どんな理由があろうとも、走れる気がしていなかったからだ。半分歩いてもいいなら、走れるかもしれないけど……。
というわけで、突然、肺がん疑惑がもちあがり、実感のないまま、精密検査を受けることに。結果からいうと、血液検査からは癌の可能性は低いが、CT検査ではやはり影があることが認められるので、3ヶ月後に再検査することになったのである。そして、予定通り、ハーフマラソン2本、ふつうに走り完走したのだった。
こうしてその後も、3ヶ月ごとに精密検査をするものの、肺の影は、原因不明のまま、消えることがなかった。1年後の12月に、かろうじて細い筋のようになっただけだった。しかし、この状況なら大丈夫でしょう。ただ、念のため、1年に1回、CT検査をしていきましょう、と安心できる段階になったことを告げられたのである。それを聞き、私も、ようやく安堵したのだった。とりあえず、今のところは死ぬことはなさそうだ。
とはいえ、原因がわからないだけに、なんとも気持ちが悪かった。たしかに、この1年間、咳がでるわけでも、胸が痛くなるわけでもなく、ふつうに生活していたので、肺がん疑惑は、実感としてほとんど感じることはなかったが……。
そんなわけで、なかなか走る気持ちにならず、月日のみが流れていたが、この12月、ようやく2年ぶりに『アンコールワット国際ハーフマラソン』に参加しようと、再び走り出したのである。
2019年12月8日──。
早朝5時半、まだ暗いなか、21キロレースがスタートを切った。秋口から練習を再開したものの練習不足が否めなかったので、私はゆっくりゆっくりペースで走り出した。アンコール・ワット前広場からスタートし、アンコール遺跡群をぐるっと1周するレース。この『アンコールワット国際ハーフマラソン』は、「遺跡の中を走る」×「地雷禁止を訴える」をテーマに、参加費の一部が、地雷犠牲者をはじめとする障害をもつ人びとや、恵まれない子どもたちに寄付されるチャリティマラソンだった。この大会目的が、私が走る理由、そのモチベーションにもなっていたのだ。
こうして6キロくらい走ったころ、東の空が徐々に明るくなってきた。日の出の時刻だった。朝日がアンコールの森に昇ってきて、辺りを照らす。その光のなかを走るのは、本当にすがすがしく、気持ちよかった。
しかし、やはり練習不足なのだろう。すでに左足に筋肉痛がはじまり、痛みが増してきていた。それでもなんとか止まらず走ろうと、足を前に前にと進めたが、16キロ過ぎたあたり、古代都市アンコール・トムの東側にある城門、「勝利の門」を通過したころ、左足は限界状態になってしまった。ふくらはぎがつっていて、激しい痛みが襲ってくる。エイドステーションで冷却スプレーをかけてもらったり、水をかけたりしたが、どうにもならなかった。諦めて歩こうとしたが、歩くこともできない。歩くほうが痛いのだ。なんてことだろう。仕方なく、騙し騙し足を前に出して走った。すると、人間の身体とは不思議なもので、こんな状態でも、走り続けることができたのだ。前へ前へ、一歩、一歩と。
そうして、ついに21キロ走り切り、アンコール・ワット前広場に戻ってくることができた。ゴールしたときは、泣きそうなほど嬉しかった。「誰かのために走る」チャリティラン。地元の子どもたちに応援されていたのは、私のほうだったが、なんとか完走することができたのだった。
ゴール後は、疲れ過ぎていて、身体も感情も、なかなか動かなかったが、「これで復活です!」という気持ちだけは、ふつふつと湧いてきた。やはり実感はないものの、肺がん疑惑がつきまとった月日は、知らず知らずのうちに、私の心にも影を落としていたのだろう。それゆえに、今回、途中、激しい筋肉痛を伴いながらも、ハーフを完走することができたことは、じつに大きかったようだ。私もまだまだ走れる、これで復活!という気持ちにつながっていったのである。