
アンコール・ワットの表参道に、人がいない──。
そんな風景を、私は初めて見た。それは、アンコール・ワットが、世界遺産に登録されてちょうど30年という節目の年を迎えた2022年のこと。地球規模でまん延した「新型コロナウイルス感染症」がようやく落ち着きを取り戻し、私も3年ぶりにカンボジアを訪ねることができたときのことだった。
コロナ禍からの回復途上とあって、まだまだ外国人観光客が少ない時期だったとはいえ、カンボジア最大の観光地であるアンコール・ワットの、350メートルもある表参道にほとんど人がいない瞬間があるとは……。おそらく、コロナ禍の3年間は、ほぼ毎日、このような状況だったのだろう。いや、カンボジア内戦中のアンコール・ワットの眺めも、まさにこのようだったに違いない。いろいろ、想いは巡る。
しかし、平和な時代である今において、世界遺産アンコール・ワットの表参道に人ひとりいないというのは、やはりじつに希少な経験で、おそらく来年以降はかなわないことだろうと、しみじみ感じ入るのだった。
それもあってか、地元の人びとの間では、伝統衣装を着て世界遺産を背景に写真を撮るのが流行っているようだった。その日も、何組もの撮影グループとすれ違った。それは、それで、今しか見られない趣のあるアンコール・ワットの風景となっていた。
そう、そうなのだ。たとえ時代がどのように変化しようが、戦争や、感染症、そして何が起ころうが、アンコール・ワットは、常に威風堂々とそこに存在しているのである。
神々の世界を地上に表した、ヒンドゥー教の宇宙、アンコール・ワット──。
12世紀初頭に建立されたこの神秘的な巨大寺院は、こうしてカンボジアの歴史を象徴するかのように、光と影、栄華と崩壊、そして、優しさと残虐さを、つねに内包しつつ、いくつもの数奇な運命を経て、今も変わらず、したたかに崇高に悠久の時を刻んでいた。