バリ島、爆弾テロ事件


「テロリストに、けっして勝利はこない。地獄におちるだけだ」
「あなたたちのことは誰も知らないけれど、バリを旅したことで、つながりがあるように感じます。サリ・クラブにいた時は、みんな最高にハッピーな時間を過していたことでしょう。だからあなたたちの最後の思い出はとっても幸せなもの!そして天国への旅も…。いつか天国でお会いしましょう」

 2003年夏、バリ島中心部にあるクタ地区レギャン通りを訪ねると、2002年10月12日に起きた爆弾テロ事件現場には、人の背丈ほどの小さな木が植えられていて、儀礼用の白と黄色の傘と花輪が供えられていた。そしてそこには、犠牲者への哀悼の意や、テロリストへの怒り、バリ島が再び平和になることへの願いなどが書かれた、多くの旅人からのメッセージがのこされていた。なかには犠牲者の写真もあり、ここで一瞬にして202名の命を奪った恐ろしい爆弾テロ事件があったことを実感させた。ひとつ、ひとつ、読むうちに胸が熱くなり、私も平和への思いをインドネシア語で書きのこしたのだった。
『たとえ国、民族、宗教が違っても、私たちの心はひとつです。ここで亡くなった方々への心からの祈りと世界平和への願いを捧げます。そしてバリがまた平和で安全な場所に戻りますように…』

 テロ現場の横には、バリのリゾート地らしいTシャツ屋が、仮の店舗を再建して店を開いていた。店主のワヤンさんは、その夜、いつもどおり夜9時に洋品店を閉め自宅に帰り、午後11時15分に爆音を耳にしたのだと話してくれた。
「ふだんはもう寝ている時間でした。でもその日は、たまたま起きていて…。すごい爆音を聞いて、事件を知ったのです。主人がすぐに店を見にゆきましたが、私は恐くて恐くて…」
 ワヤンさんの店は、事件現場となったディスコ「サリ・クラブ」に隣接して建っていたため、「サリ・クラブ」の爆発と同時に店も壊滅し炎上した。
「主人に、店が跡形もなく壊されたことを聞きました。そして大勢の人が亡くなったことも」
 ワヤンさんは恐怖のあまり3日間、自分の店跡を見にゆくことができなかったという。観光の島、楽園バリで、あんな大規模な爆弾テロが起こるなんて思いもよらないことだった。そしてワヤンさんは、事件4ヶ月後になんとか店を再開したものの、その後のイラク戦争、SARS(新型肺炎)の影響も相まってバリ島への観光客の足は止まったまま、商売あがったりとなっていた。観光業だけで生計をたてているワヤンさんのようなバリ人にとって、この度重なる出来事は、もはや青息吐息を通りこした事態をまねいていたのである。

 そんななか、テロから1ヶ月後の2002年11月15日に、バリ島ではテロ現場とクタビーチとで合同慰霊祭が開催された。クタの人々は、テロのショックを乗り越えようと、「BALI LOVES PEACE」、「BALI CINTA DAMAI(バリは平和を愛している)」という英語とインドネシア語のスローガンをつくり、Tシャツやステッカーにして配ったという。
「それはバリだけの平和を言っているんじゃない。世界中の平和のためのスローガンなんですよ。もう戦争や殺人はいらない。全世界に向けてのメッセージなのです」(レギャン通りの洋品店で働く、マルティンさん)
 一方、事件後、容疑者は早いテンポで逮捕された。実行犯は、東南アジアのイスラム過激派「ジェマー・イスラミア(JI)」の幹部と見なされているイサム・サンドラと仲間たちだった。哀しいことにみなインドネシア人だったのである。そして、こうした外国人が集まる観光地を狙ったテロ事件の背景には、パレスチナ問題や、2001年にNYで起った同時多発テロ事件、その後の「テロとの戦い」という名のもとに米国がアフガニスタンへの空爆を始めたことへの反発が強く関連していることが明らかにされた。

 2004年の春、ふたたびワヤンさんを訪ねると、こんどは新しいショッピングモールの中に店を移転しての再出発となっていた。少しずつながら、被害があった周辺一帯も再開発が進んでいて、ホッとした。しかし残念なことに、翌年2005年10月1日に、再びバリ島のクタ地区とジンバラン地区のレストランで自爆テロ事件が起きるのだった。やっとバリの人々も立ち直ってきたところだったのに…。何とも悔しい思いになった。
 そして2009年1月にバリを再訪すると、バリの街やビーチはようやくにぎわいを取り戻し、観光客の足も戻ってきたようだった。爆弾テロ事件現場に植えられた小さな木も、今や商店街の2階屋根よりも高い木へと成長していて、生い茂る緑の葉はレギャン通りまで伸び歩道にやさしい日陰をつくっていた。その成長ぶりに、恐ろしいテロ事件からの歳月を思わずにいられなかった。もう6年もの月日が流れていたのだ。こうして木の成長とともに、街は復興し、人々の日常も確実に変化してきたのだろう。
 しかし、バリの人々の話に耳を傾けていくと、その心模様は、あのときから止まっているかのようでもあった。楽園バリに2度も襲いかかってきた爆弾テロ事件は、「二度とバリに観光客が来ないのではないか」という強烈な不安を彼らに植えつけていたようだ。それゆえか、観光客が戻った今でさえ、レギャン通りに店を構えるバリの人たちは、一様にこう語るのだった。
「どうか、テロ以前のようにバリがにぎやかになりますように。それが願いです」と。
 とはいえ、路地裏に入れば、のんびりゆったりお供え物をつくっている女性たちに遭遇して、優しい気持ちになっていく。そしてクタの街やビーチを歩けば、新しいバリの風がここかしこに吹いている。外国人の私の眼には、「そろそろインドネシアへ行こう」「魅惑のバリに還ろう」という空気が確かなものになっているように見えた。1986年にはじめてバリ島を訪ねて以来、さまざまなクタの表情を見てきたけれど。こんなに多様な観光客がいるクタを見るのははじめてのような気がしたのだ。
 バリがはじめての旅人も、何度もやってくるリピーターも、優しく大らかに受けとめつづけるバリ。たとえ悲惨な事件が起ころうとも、どんなに時代が変わろうとも、変わらないバリとそれを受けとめて変わっていくバリがそこにある──。それが、バリのバリたるゆえんなのだろう。



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