祈りの朝



 朝焼けがじつに美しい朝だった。
 何とも清々しい気持に包まれ、私は目覚めたのである。ここは、インドネシアのジョグジャカルタ。30日間の断食月(ラマダーン)がおわり、世界中のイスラム教徒がアッラーに感謝の祈りを捧げる祝日「レバラン」(アラビア語でイードゥル・フィトゥル)がはじまろうとしていた。
「レバランの礼拝は、大きなモスクや広場、路上にも人々が集まって行われるんだよ」
 日本にいるときにジャワ人の友人から、そう教えられていたが、広場や路上にも人が埋め尽くすという意味が、いまひとつ私はピンときていなかった。大小あわせ何十万か所もあるインドネシアのモスクから人があふれてしまうのだろうか。はたして、ここジョクジャカルタでは、どのような礼拝が行われるのだろう。
 朝6時半に、街の中心、クラトン(王宮)近くにある友人の家に行くと、家の前の通りには、色とりどりのレバランを祝う旗が飾られていて、すっかり晴れやかな雰囲気に包まれていた。そして、その通り沿いにも小さなモスクはあったが、人々はみな王宮前広場のアルンアルン・キドゥルに向かっていた。なるほど、レバランの礼拝は、地域の人々がなるべく1カ所に集まり多勢で祈りを捧げるものだったのだ。
 私も友人家族といっしょにアルンアルン・キドゥルへと向かうと、広場にはすでに多くの人々が集まっていた。1年でいちばん盛大な祝日とあって、カキ・リマ(手押し車などの行商人)や露店商も店開きをし、お祭りムードを盛り上げていた。
 2ヘクタール以上もあるという広い広場の真ん中には2本の巨大なブリンギン(ベンガル菩提樹)があり、その周りに何千人、いや何万人とも思われる人々が埋め尽くしていた。メッカにあるカアバ神殿の方角に向かって前方に男性が、後方には女性が列をなし、祈りの時間を待っていた。いったいどれくらいの人が集まっているのだろう。しかし、「何人くらい、集まっているの?」と聞いたところで、「たくさんよ」との回答しか返ってこないのが分かっていたので、あえて質問することはしなかった。ここインドネシアでは、数に対する観念があまりないのが常なのだ。とにかく「たくさん」の老若男女が一堂に会していたのである。

 そして朝7時になると、「アッラーフ・アクバル──神は偉大なり」の導師の声を合図に人々は一斉に立ち上がり祈りへと入っていった。アルンアルンを埋め尽くした人の海が、起立して祈り、腰を直角に曲げて立礼し、そして地に額ずいて祈る。全員が祈りひとつとなりアッラーを讃えるのだ。そのダイナックな人の動きに圧倒されつつ、私はアルンアルンを走り回り写真を撮りつづけた。
 しかし、地をはう人間の眼に映る祈りの空間には限りがあった。人・人・人…が波打つのを遠くに近くに感じながら呆然と立ち尽くし眺めるだけだった。はたして神の眼から見たら、何万人もの人々が一斉に地に額ずく光景はどのように映っているのだろうか。
 しかも、その帰依の祈りはここアルンアルン・キドゥルだけではなく、世界に13億人いるといわれるムスリムが地球上のどこかでそれぞれに集まり、アッラーヘの祈りを捧げているのである。
 なかには、何十万人ものイスラム教徒が集う場もあるのだろう。東南アジア最大級のモスク、ジャカルタにあるイスティクラル・モスクでは約10万人から20万人が、そして本家本元、サウジアラビアのメッカにある聖モスクには、約100万人にも及ぶ信徒が一堂に会すると言われていた。
 そんなイスラムの祈りのスケールの大きさは、想像するだけでめまいがしそうだった。


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