時代が変わるとき


 戦後70年という節目の年を迎えた2015年。年明け早々、世界は「きな臭い」事件に覆われていった。やがてそれは、遠いヨーロッパや中東だけの話ではなく、私たち日本人の命まで脅かすものとなっていった。過激派組織「IS」による日本人人質事件──。
 TVでは、連日この話題で持ちきりだったが、実際はなかなか実相が見えてこない、そんな印象だった。いったい「IS」という集団はどうして生まれてきたのだろう。今、シリアやイラクでは何が起こっているのか。なぜ、ふつう以上に中東やイスラム世界に親しみをもっていたはずの、ふたりの日本人が、尊い命を奪われなくてはならなかったのか。そして今後日本は、このような世界情勢にどう対峙していったらいいのか。インターネット上に出回る残虐な映像を直視しつつ、心苦しい日々がつづいていた。

 そんな折り、ちょっと季節遅れの「寒中見舞い」のはがきが届いた。文面には、1月に辺野古へ行き海上撮影してきたこと、4月30日にはベトナム戦争終結40周年式典に行くことなどがつづられていた。昨夏、東京でお会いして、ベトナム戦争やカンボジア内戦のお話を伺った石川文洋さんからの便りだった。今年は、1975年4月30日にベトナム戦争が終結して40年の節目の年。やはり文洋さんは、ベトナムに行くんだ……。
 石川文洋さんとは、沖縄出身で、1964年より世界一周無銭旅行へ出発したまま南ベトナム政府軍・米軍に従軍し、世界にベトナム戦争を伝えつづけた戦場カメラマンだった。1969年に朝日新聞社のカメラマンとなるが、後にふたたびフリーとなる。そして今なお報道写真家として活躍されていた。昨年も、文洋さんの半生を追ったドキュメンタリー映画『石川文洋を旅する』(大宮浩一監督)が公開されたところだった。

 文洋さんとお会いしたのは、その映画が公開される少し前のことだった。特定秘密保護法、集団的自衛権、基地移設…と、一歩一歩、「戦争ができる国」へと転換しつつある日本。この大きな分岐点にさしかかり、私たちは、ベトナム戦争やカンボジア内戦から何か学ぶことはないだろうか。そんな思いから、私は文洋さんにお話を聞きに行ったのである。
 そして、いろいろと話が展開するなか、
「ザワザワするんです。私はまったく戦争を経験していないけど、今の日本の状況に、ものすごくザワザワします。このままでいいんだろうか、いいんだろうか…」という私に、
「そういう人は珍しいですよ。ザワザワしない人が多いわけですから」と、文洋さんは答えたのだった。珍しい? ちょっと意外な言葉だった。文洋さんのまわりには、ザワザワする人ばかりが集まってくるのではないだろうか。もしかしたら、「沖縄ではない人で」「戦争を知らない若い人で」という意味だったのかもしれない。そこで、そうですかと、うなずきながら、さらに私はこう言った。
「私、日本の近代史というのを学校ではほとんど習っていないんです。海外に行ってはじめて、インドネシアに留学したときに、逆に向こうの人たちから教わってきたという状況で。日本の植民地時代を経験された高齢の方々に、日本のいい話も悪い話もたくさん聞いてきました。若い大学生でも慰安婦の問題を知っていました。ですから…。今日本が戦争ができる国になろうとしていることに、ものすごくザワザワするんです。どうしていったらいいんでしょう……」と。
 すると、文洋さんはこう答えてくれたのである。
「今、非常にむずかしいですよね。私もどうしたらいいか分かりません。だから自分にできることとして、少しでも戦争の実態を伝えていければと。戦争の実態、日本の戦争の実態というのも伝わっていないんですよ。戦争はみな同じですから。どの戦争も、殺し合いだとか、民間人が死ぬ、犠牲になるということです。爆弾を落とせば、下に民間人がいるんですよ。今までベトナム、カンボジア、その他いろいろなところで見てきました。日本も原爆を落とされて、民間人がたくさん犠牲になっているわけですから。沖縄戦もそうでしたよ。人間がバラバラになってしまうんです。やっぱり、そこにね。そこへの想像力がないと…。戦争の悲劇への想像力ですよ。そして沖縄に基地を造るということは、沖縄が標的にされるということですよ」

 2015年となり、いよいよ日本の形が根本から変わろうとしていた。今回の日本人人質事件の背後でも、安全保障法制は、粛々と整備されようとしていた。気がついたときは、引き返すことができないところにまで行っていないだろうか──。
 それが杞憂であることを願いつつ、今日も私は、ザワザワ、ザワザワしていた。そう、私は戦争を知らない世代だけど、ザワザワ、ザワザワするんです。やはり、文洋さんをはじめ先輩方の思いを受け継いで、伝えていかなくては…。まわりにたくさんいる、同じように感じている人たちと、いっしょに。今日も、ザワザワ、ザワザワしているから……。
 文洋さんからのはがきを見ながら、私はそうつぶやいていたのだった。

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