ニュージアム・カフェ


 ちょっと変わった男に出会った。
 名はタウフィック・ラハザ。インドネシアの文化人として知られる人物で、ジャカルタにある人気のバー『ニュージアム・カフェ』のオーナーでもあった。1963年スンバワ島生まれで、自分の宗教は、スンバワ島に伝わる「マラプ」という精霊信仰だという。青年時代はジャワ島のジュンブールやジョクジャカルタ、バンドゥン、そしてバリ島で過ごし、その後、バグダッド、エレサレム、チベット、インド、日本などにある“世界の聖地”を旅して回ったらしい。本のコレクターとして、また多くの著書があることでも有名だった。
 実際、話すと、これがなかなか面白い男だった。気さくで話し好きで。そして何よりも彼の話す内容が面白かった。政治の話から文化・宗教まで、じつにユニークな視点で世界事情を語ってくれたのだ。
 そんなタウフィック氏が、ジャカルタに『ニュージアム・カフェ』をオープンしたのは2007年のことだった。
「ここは、モナス(ムルデカ広場にある独立記念塔)にも近くていい場所だし、オランダ統治時代、この建物は、伝説の女スパイとして知られるマタ・ハリが住んでいた邸宅だったんだよ。その後、ここはオランダ軍のカフェとなって。またこの辺りは20世紀初頭に夜の繁華街として栄えた場所でね。今でもその頃の建物が残る、すごく魅力的なエリアなんだよね。この文化的な雰囲気が好きで、この建物を文化を発信する家にしようと思ったんだ」
 伝説の女スパイ、マタ・ハリとは、第一次世界大戦中、ドイツとフランスのダブルスパイとして逮捕され処刑されたオランダ人女性マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレのことで、愛称はマタ・ハリ(インドネシア語で“太陽の目”の意味)。“20世紀最大の女スパイ”として、今なお数々の伝説が語られている人物だった。18歳のとき、陸軍大尉と結婚してオランダ領東インドのジャワ島に渡った経歴があり、転々と赴任地が変わるなか、現在の「ニュージアム・カフェ」となるジャカルタの邸宅でも暮らしたらしい。
 そして、タウフィック氏は、この魅力ある歴史的建物を使って,インドネシアの報道の歴史を記録し伝え、議論しあう“文化の家”を作りたいと考えたという。歴史をふり返れば、インドネシアの建国にあたりジャーナリストが果たした役割は非常に大きかった。それを改めて紹介し、未来を見つめていきたいと思ったのである。

「インドネシアの報道の歴史は、印刷術の発展・普及に伴いオランダ時代にはじまったんだ。インドネシアで初めて印刷された新聞は、“バタヴィア・ヌーヴェル”という名前の新聞で、1744年、オランダ東インド会社(VOC)によってバタヴィア(現在のジャカルタ)で創刊されたんだよ」
 読者はオランダ東インド会社(VOC)の社員と、欧米人の小さなコミュニティで暮らす人々。オランダ政府の勅令や、また東インド諸国での競売セールなどを知らせる広告を掲載するものだった。そして19世紀になると、印刷術の発展も進み、私企業による新聞も発刊される。またオランダ語、中国語、ムラユ語(マレー語)による新聞や定期刊行物も誕生し、地元インドネシア人が読者層に入るようになる。もっぱらオランダによるジャワ政策の美徳や、原住民の暮らしや文化を紹介するものだったが。
 ところが、1830年にジャワで強制栽培制度(農業植民地制度──東インド諸島の生産者から低価格で購入し、本国で高価格で販売するという、厳しい搾取体制)がはじまると、それに反対するメディアがオランダ人の間から誕生した。たちまちオランダ政府による干渉が起こり、1856年には植民地政府の批判を規制する法律が施行する。報道の自由、言論の自由は厳しく制限されたのである。
 それから間もなくして、“インドネシアジャーナリズムの先駆者”と言われる、ティルト・アディ・スルヨ(1880―1918)がジャワに現れたのだった。
「この偉大なる人物、ジャーナリズムおよび民族主義運動の先駆者であるティルト・アディ・スルヨを記念して、彼が亡くなった12月7日を “インドネシアの報道の日”と定め、ニュージアム・カフェで展覧会を開催したんだ。これがカフェのはじまりだよ。2007年は、ティルト・アディ・スルヨが、プリブミ(原住民)よる初の新聞『メダン・プリヤイ』を発行してちょうど100年という記念すべきときでもあったしね」
 「ニュージアム・カフェ」の壁に飾られたティルト・アディ・スルヨの肖像画の前でポーズをとりながらタウフィック氏はこう静かに語った。

 ティルト・アディ・スルヨによって、1907年に創刊された『メダン・プリヤイ』は、「全蘭領東インドの抑圧された民の声」をモットーに掲げて、オランダの植民地政策に対する厳しい批判記事を掲載する新聞だった。しかし、権力を厳しく追及する記事によりティルト・アディ・スルヨは捕らえられ北マルクにあるバチャン島に流刑されることになる。1912年には新聞も経営不振に陥り廃刊へと追い込まれる。その後、釈放されティルト・アディ・スルヨは再びバタヴィア(現在のジャカルタ)に戻ってくるが、体調をくずし、1918年12月7日、38歳にしてこの世を去ったのである。
 以来、1世紀。権力に立ち向かい、民族の自立を勝ち取るために闘うジャーナリストが、次々と出現し活躍するようになる。しかし、権力を監視すべき報道は、つねに権力をもつ植民地政府、そして独立後はインドネシア政府により言論の自由を奪われつづけた。スカルノ、スハルト両政権下で、政府の不正や腐敗に批判的な記事を掲載して発行停止となったメディア、逮捕・自宅軟禁処分となったジャーナリストや作家は後を絶たなかった。その重圧をかいくぐって、反骨のジャーナリストたちは、自分たちの使命を果たすべく、ひねりにひねった表現で現実を伝えようとしたのである。「ニュージアム・カフェ」の壁には、そんな歴代の新聞や雑誌の表紙がアートとなって飾られていて、インドネシアの報道の歴史を静かに物語っていた。
 そして1998年、32年間もつづいたスハルト独裁政権がついに終焉する。すると、レフォルマシ(改革)の風が勢いよく吹き出し、言論自由の時代へと動き出す。99年にはプレス法が成立し、政府の許可なしに新聞が発行できるようにまでなった。言論統制のきびしい時代を知る私にとっても、それは奇跡のように感じられた。こうしてインドネシアの人々は、ようやく言論・報道・出版の自由を獲得したのである。
 そんな時代に誕生した「ニュージアム・カフェ」。設立以来、カフェでは、報道や政治、文化に関するシンポジウムや展覧会などを不定期に開催しているようだった。はたして今後は、どのような活動が繰り広げられていくのだろう。タウフィックという、ちょっと変わった男と同様に、予測不可能な面白さがありそうだ。

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