とぎれた日常


 あっという間に月日は流れ、2011年も気がつくと4月になっていた。仕事の忙しさがつづいていたこともあったが、3月11日の地震以来、1日1日と日本のおかれている状況と自分がいる環境に変化が生じてきたことが大きかったのだろう。東日本大震災を肌身で感じた人たちにとって、それは誰しも同じことなのかもしれない。あの日以来、何かが変わってしまい、つい1ヶ月前のことでさえ、遠い過去のことように思われるほど、日常がとぎれてしまったのではないだろうか。

 3月11日、自宅で仕事をしていたわたしは、今までに経験したことのないほどの揺れを感じ、あわててガスファンヒーターを消した。テレビの揺れは尋常ではなく、仕事部屋の本棚からは本や資料がバタバタと落ちた。いったん揺れがおさまったので、本を戻しはじめると、またすぐに大きな揺れがはじまり、戻した本は同じようにバタバタと落ちてきた。チェストの上にあった小さな花瓶も倒れ、あたりは小さな水びだしとなった。そしてテレビをおさえているうちに仕事部屋のパソコンがずれ落ちそうになり、キーボードが飛んだため、パソコン画面はパニック状態になってしまった。
 そして、しばらく揺れた地震もおさまり、 すぐに実家に電話して親の安全を確認すると、多少物が落ちただけで無事とのことだった。 テレビをつけるとどの局も地震速報を流していて、大きな地震だったことを知った。とはいえ、それがどんな状況を引き起こすことになるのかなど、想像すらできなかった。わたしは水びだしのチェストまわりを乾かし、落ちた本や資料を戻し、パソコンを正常に復帰させ、ガスファンヒーターをつけた。ところがガスが止まってしまったのか、ヒーターは使えなかったので、そのままエアコンをオンにして、急ぎの仕事を片付けようと仕事を続行したのだった。
 とはいえ、今までに経験したことのない揺れ、アパートが壊れるんじゃないかと思うほどの地震の怖さは体がしっかり記憶していて、ほとんど仕事は手がつかなかった。それほど怖かったのだ。そしてまわりの安否確認のメールが飛び交い出し、時間だけが過ぎていった。夜になってもガスは復帰せず、一体どうなっているのかさえ分からなかったが、大家さんに電話して、それは安全装置が作動しただけで、ボタンを押せばカンタンに復帰することを知った。情報がないと、まったく何が起こっているのかさえ理解できないことを改めて知ったのだった。
 テレビを見ると、首都圏の電車は止まり、帰宅難民があちこちで生じているとのことだった。そしてさらに驚かせたのが、宮城県での津波の映像だった。まさか、2004年に起こったスマトラ沖地震と同じような状況に日本がなっていたとは想像すらしていなかったからだ。海から押し寄せてくる津波は町や田畑を呑み込み、家屋や車ごと、人々を連れ去っていったのである。まさか、この世のものとは思えない光景をふたたび目にするとは…。あのとき、スマトラではマグニチュード9.1の巨大地震、その後の津波の被害により、約17万人が死亡したのである。
 こうして、あり得ない現実を目の当たりにし愕然としながらも、月曜日まであげなくてはならない仕事があったため、その夜は徹夜で、頓挫していた仕事をすることになった。恐ろしいほどの現実が目の前にくり広げられていても、その前から続いている日常を投げ出すわけにもいかず、またある意味、人間の脳も日常を急激に変更することができないようで、以前と変わらぬ時間の流れで生きよと指令してくるのである。
 そんな異常な金曜日が終わり、開けて土曜日のこと。午後近くに起きて、郵便受けに行くと、わたしの著書『40代初産をはじめた女性たち』を発行した出版社から郵便がきていた。何のことだろうと思い、封を切ると、読者からの著者宛の手紙が出版社に届いたため、その手紙をわざわざわたしに送ってくれたものだった。しかもその手紙は半年以上も前に出版社に届いていたのだが、何かの手違いで転送する時期が遅くなってしまったとのことだった。確かに読者からの手紙の消印を確認すると、平成22年7月19日になっている。あの暑い夏の日にわたし宛に届けられた手紙だったのだ。それが何のいたずらか、日本が未曾有の大震災にあった翌日にひょいとわたしの手元に郵送されてきたのである。
 わたしはその手紙を読みながら、なんとも言えない思いになっていった。その手紙には、さまざまな人生を乗り越え、40代ではじめての子どもを出産した読者の2010年夏までの日常がつづられていた。昨日と今日ではまったく違う午後のひととき、日本の現状が展開していて、日常も非日常へと変わりつつあるなか、遠い過去の日常がタイムトラベルしたかのように突然現れ、わたしの時間を半年前へと引き戻すのだった。震災が起こるとは思いもしていなかった、あの暑かった夏へと。

 そうして、1日1日と日を追うごとに、今回の震災の被害の甚大さが明らかになってきて、東北地方の人々が想像を越える悲しみや苦しみに直面している事実が東京に暮らすわたしにも少しずつ見えてきた。約6年前のスマトラ沖地震のときも、胸がつぶれるような思いになったが、今回は、同じ日本語が通じる同胞でありながらも、かける言葉が見つからなかった。瓦礫の山となったその地には、きっと半年前の、1年前の、いや10年、20年前の日常がそこには残っているのだろう。海が呑み込みながらも、吐き出して残していった人々の記憶。そのとぎれた日常をかき集め、過去の思い出を心の支えにしながらも、やはり人々は新たな未来へと踏み出していかなくてはならないのである。そのとき、少しでも寄り添える心をもって、一緒に新たなニッポンを築いてゆけるようになれれば…。そんな希望を灯してゆければと思う。今は、ただ心よりのお見舞いと、1日も早い復興を祈るばかりである。

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