20世紀のアジアの顔


 ついにその日はやってきた。2008年1月27日、インドネシアで32年間にわたり強大な権力をもちつづけたスハルト元大統領が、多臓器不全のため死去した。享年86歳。1998年5月、民主化の波に押されて大統領の職を辞してからすでに10年の歳月が流れていたものの、やはり「ひとつの時代が終わった」と感じずにはいられなかった。
 スハルト氏。インドネシア共和国の第2代大統領。1921年に中部ジャワで生まれた。職業軍人として着々と道をあゆみ、65年の共産党系勢力が主導したとされる未遂のクーデター『9月30日事件』を鎮圧し急速に頭角を現わす。その後スカルノ初代大統領から実権を奪う形で68年、第2代大統領に正式に就任。以来、「新秩序」(オルデ・バル)を唱え、開発を国家の第1目的にし、反共・親日欧米、ASEAN重視の外交路線をとる。そして外国援助・外資導入による経済・社会開発優先の政策を展開し、年6~7%という高い経済成長を遂げた。この経済発展の功績がたたえられ、83年には「開発の父」という称号が授与される。93年には5万ルピア札の顔にもスハルト氏が選ばれた。
 しかし一方で、国益のためならと人権を軽視した非民主的な政治や暴力的弾圧を行い、また言論の弾圧、KKN(カーカーエヌ/汚職・癒着・縁故主義)の蔓延、ファミリービジネスの巨大化など負の遺産もつくり、大衆の不満は徐々に蓄積されていった。そんな折り、経済危機に直面すると民衆の反政府運動は高まり、98年ついにスハルト大統領は辞任へと追い込まれたのだった。そして、99年には5万ルピア札からも姿を消した。

 あれから10年。長かったのか、短かったのか。私にとってもあの頃、スハルト体制が崩壊した前後数年は、東京とインドネシアを行ったり来たりしながら、独裁政権から民主化へと進んでゆく大きな時代のうねりの中に迷い込んていった月日であった。ある意味、スハルト体制に対する人々の気持ちの変遷を追いかけつづけた日々とも言えた。そして激動の時代の中で変わりゆくジャワの人々の思いを著書「小さきものの祈り」で書きつづった。
 ふり返れば当時は、人口2億人のインドネシア人が束になっても、永遠に倒すことができないのではと思えたスハルト独裁政権だった。しかし、1997年のアジア通貨危機に端を発しインドネシアの通貨ルピアの暴落がはじまると、インドネシアは経済危機、物価上昇、薬や食料品、燃料の不足、企業の倒産、失業増加、暴動発生…と、かつてないほどの不穏な空気に包まれていく。そのような中、『新しい大統領で、嵐はすぎる』と、スハルト大統領退陣を求める学生デモが起こり、人々を驚かせたのだった。大統領、政府を直接的に批判するなんて、言論統制のきびしいインドネシアでは考えられない出来事。にもかかわらず、学生たちの勢いは止まることを知らず、あっという間にデモは全国津々浦々までひろがっていった。だが、それでも大人たちは、
「今インドネシアの未来を語ることは本当にむずかしい。それができるのは、スハルトか神かです」
「どんなにスハルトが嫌いだって、今いちばん重要なのはスハルトさ。インドネシアの王さまだからね」
 と、どこかあきらめの雰囲気を漂わせていた。どんなに逆立ちしても、どんなに学生が騒いでも、現実は現実。そう簡単にはスハルト大統領の退陣はありえないと実感していたのだ。そして、
「おそらく民主主義はすぐにこないでしょう。スハルトが死のうと続行しようと、民主主義がこないからといって我々に希望がないわけではない。こんな言葉があるのです。──この暗闇の中で、この暗闇を呪ってはいけない。そこにろうそくに燈火を灯さなくてはならない…」
 と、あきらめの中にも、なんとか燈火を見出そうとしていたのである。
 自分の足で歩き、自分の目と耳と心でインドネシアの人々の話を聞いていたあの時、私自身もたしかに同じように感じていた。学生が語る理想は理想だけれど、現実はそうそう簡単に変わるものではない。世の中とはそういうものだから…。

 ところが急転直下、運命の日は突然やってきた。抗議デモ、略奪・焼き討ち、暴動、群衆と治安部隊との衝突…と、事態がますます混迷してゆく中、1998年5月21日、ついにスハルト大統領も時代の流れには逆らえ切れず自ら辞任を表明したのだった。これで、新しい自由な時代が訪れると誰もが希望を抱いた日となった。

 こうしてスハルト時代が終焉し、インドネシアにリフォルマシ(改革)の風が勢いよく吹きはじめると、人々は一斉に「KKN(カーカーエヌ/汚職・癒着・縁故主義)を廃止せよ!」と叫び出した。スハルト時代を象徴する三語、KKN。まずはこれを撲滅しなくては何もはじまらないと。巷ではタブロイド紙が次々と発刊され、各紙、政府批判を競い合い、学生たちもさらなる改革、スハルト前大統領の不正蓄財の訴追、国軍の二重機能撤廃などを求めてデモをつづけた。
 そんななか1999年6月、首都ジャカルタで、たまたま検察庁庁舎前をとおると、門前に大勢の大学生、報道陣が詰めかけているところに遭遇した。話を聞くと、ジャカルタにある大学の学生が100人ほど集まり、「スハルトを裁け!」と糾弾するために決起したのだという。そして学生たちは、
「スハルトとその家族、とりまきを裁け!次の国民協議会までに裁け!」
「最高権力の法を立ち上げよう!」
 などの主張が書かれた紙をくばり、門の中の役人たちと話し合いの場をもとうと交渉していた。しかし役人はただ見守るばかり。すると学生リーダーは、スハルト氏の肖像が描かれている旧5万ルピア札とサルの絵が描かれている500ルピア札をとりだし、2つの紙幣を並べ合わせて、
「スハルトはサルだ!動物だ!」と訴えはじめたのである。他の学生たちも「そのとおり!!!」と大合唱。そして、たちまち「スハルトを裁け!裁け!」のシュプレヒコールへと発展していった。すると、しばらく静観していた役人もやっと門をあけ外にでてきて、学生たちとの対話を受け入れることになった。学生たちも静かにその場に座り、挙手をしてひとりひとり意見を述べて、役人に回答を求めていったのである。

 それにしてもスハルト氏は、『サルだ!動物だ!』と、ここまで公の場で言われる存在になっていたとは…。インドネシア紙幣、最高額5万ルピアの顔だったスハルト氏は、500ルピア札のサルと同等だと。これが時の流れ、歴史というものなのだろうか。1年半前までは、誰もが恐れ、また「国父」として崇めていたスハルト氏も、民主化という時代の流れには勝てなかった。時代が変われば、天と地との差でもって冷酷に裁かれる立場となってしまったのである。
 あれから10年。長かったのか、短かったのか。人権抑圧や巨額の不正蓄財の功罪が追求される中、99年に脳梗塞で倒れ静かに引退生活を送っていたスハルト氏だったが、2008年1月あらゆる事件の真相が解明されないままこの世を去った。「開発の父」であり、「独裁者」でもあったスハルト氏。20世紀のアジアの顔の一人だったことには変わりないだろう。いやはや、今となってはスハルト時代は安定していたと懐かしむ声さえ聞こえてくる。そんななか、今後スハルト氏はどのような歴史上の人物に仕上がってゆくのか。私も、静かに見守ってゆこうと思う。

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