ルック・オブ・サイレンス


 人間として大虐殺を「よいこと」と肯定する人は、そうそういないだろう。しかし、大虐殺を容認または無視し続ける人々は、地球上にごまんといる。国の安定を守るためには仕方がなかったと大義を掲げる権力者や実行者はもとより、それにより利益を得る大国や人、また事実が「力」によって隠されているがゆえに事件を知らない世界中の人々と……。
 この多くの“責任なき悪”により、被害者の存在は国際社会から無視され続け、大虐殺がなかったかのように世の中は回っていくのだ。過去の様々な大虐殺も、今なお繰り返される人権侵害も。もはやさらなる弾圧を恐れる被害者たちは沈黙するしかない。
 その沈黙の民が、半世紀の時を超え、虐殺を行った加害者に会いに行き、罪を直接問いかけるという衝撃のドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』を観た。“沈黙の眼差し”という意味だ。
 世界は冷戦真っただ中の1965年。インドネシアでクーデター未遂事件「9・30事件」が起きた。事件を鎮圧した新体制により、「黒幕は共産党で、共産主義者は国の安定を脅かす悪だ」とされ、100万人規模の人々が“共産主義者”とみなされ秘密裏に虐殺された。本作は、その実行者である民間人に殺害を再演させて世界的に話題となった『アクト・オブ・キリング』(2014年日本公開)の続編で、今度は兄を殺された被害者家族のアディが、今なお権力者として同じ村に暮らしている加害者一人ひとりと対峙していく作品である。
 アディは口数が少ないながらも、淡々と虐殺の真相を追及していき、加害者たちを苛立たせていく。「自分の責任ではない」「命令に従っただけだ」。想像通り、加害者たちの答えは世界中どこでも同じだった。
 しかし、アディも、オッペンハイマー監督も実にしつこかった。さり気なく、じわじわと加害者に迫るなか、大虐殺事件の背景には、アジアの共産化を危惧する米国と、まさにこのとき容共から反共・親米路線へ大転換したインドネシア政府と国軍が存在していたことを描き出していく。
 30年にわたりインドネシアと関わってきた私自身も、「よくぞここまで語らせた」と、うなりながら、うなずきながら映像に引き込まれていった。インドネシアの民主化前、政府批判が即「国家転覆罪」に問われる時代からヒソヒソ声で語られ続けてきた“大虐殺の真相”が、ことごとく加害者のリアルな言葉で証言されていたのだ。
 ある意味この映画は、誰もが知っていたインドネシアの“公然の秘密”を可視化し、歴史とは国の権力者(勝者)と「力」をもつ世界の大国の「正義」によって歪曲され、大虐殺でさえ容認され黙殺されることを世界の人々に訴えかけているといえよう。
 私たち日本人も、決して他人事ではない。“大虐殺を容認する構造”に組み込まれる可能性は誰にでもある。そのことに、日本が特別秘密保護法施行、安全保障法制整備へと強行する今、改めて気づかされることだろう。

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