SEALDs


 7月10日(金)、安保関連法案に反対する、国会前抗議デモを取材した。大学生を中心とする「SEALDs(シールズ)─自由と民主主義のための学生緊急行動」によるものだ。デモ開始前は、報道陣の数のほうが多いくらいだったが、開始時間が迫るごとにSEALDsのメンバー、学生、大人も子供も、続々と集まり歩道を埋め尽くした。1万5000人を超えるデモとなったようだ。

憲法守れ。憲法守れ。
未来を守れ。未来を守れ。
命を守れ。命を守れ。
強行やめろ。強行やめろ。
民主主義って何だ。何だ。
戦争するな。するな。
国民なめるな。なめるな。
集団的自衛権はいらない。
強行採決、絶対反対。
戦争したがる総理はいらない。
なんか自民党感じ悪いよね。
憲法守れ。憲法守れ。

 「集団的自衛権の強行採決」「憲法違反の法案」に反対するコールが響き渡る、その間で、学生や大学教授、国会議員などのスピーチがつづく。その中の一人、大学2年生のもえこちゃんのスピーチは、まさに戦争の本質をついている内容なのに驚かされた。カンボジア内戦の実相を取材しつづけてきた私も、まったく同じように感じていたからだ。一度戦争がはじまれば、異常もいつしか正常になり、生きるためには何でもしなくてはならなくなる。人間性は失われ、人は思考停止となり、諦めるしかない。考えたり、感じたりする、その力さえもなくなってしまうのだ。それを、1度アウシュヴィッツを訪れただけの大学生が、感じ取っているのである。その彼女の気持ち、スピーチをここで紹介しよう。

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大学2年のもえこです。
今日はものすごく緊張しているんですけど、がんばって話したいと思います。私たちは戦争を知らない世代です。言ってみれば、国民の多くが戦争を知らない世代であり、安倍総理もそうでしょう。けど70年前に終わった過去の話として、戦争を自分たちから、切り離していいのでしょうか。

今年の3月、私はアウシュヴィッツ強制収容所を訪れました。ナチスのホロコーストに殺された600万人のうち150万人が虐殺されたと言われている場所です。最初、150万人という数字が私にはどうしてもピンとこなかった。あまりにも、膨大すぎて。でもアウシュヴィッツに残された山のように積み上がった靴や鞄、メガネを見たときに、はっとなりました。このひとつひとつに持ち主がいて、泣いたり、笑ったり、日々の生活を一生懸命生きていたということ。それが実感を伴って押し寄せてきたのです。

そして思いました。アウシュヴィッツは私たちにとって、決して遠いことではないと。ヒットラーやナチス、そしてそれを支えた多くの人々が狂っていたわけじゃない。その人たちだってきっと、泣いたり笑ったりしていた、いわゆる普通の人間だったはずです。相手が自分と同じように痛みを感じる人間であるというのを忘れてしまったとき、そして一人ひとりが考えることをやめたときに、人はきっと誰でも簡単にああなり得るのです。戦争もホロコーストも私たちにとっては遠い昔の話のように感じられるかもしれない。けれど、自分と切り離して考えることはできないはずです。考えることをやめたとき、誰でも人は、怪物になり得ます。

帰ってきてヘイトスピーチなど、些細な憎しみが巷にあふれかえっている日本社会を見て、私は改めて怖くなりました。あの頃、ナチスを支持せざる得なかった、ナチスに抗えなかった人々は、良心の痛みよりも、自分の日々の生活を、小さな幸せを優先して考えることをやめました。それはきっとそうしないと生きていけなかったから。でも、今私たちには嫌なことは嫌だという自由があります。

私たちにとって政治は生活の一部であり、自分の日々の小さな幸せを考えることこそが政治を考えることにもつながっているのです。何度も言われたことかもしれません。でも、何度だって言います。政治は、私たちの生活そのものです。

戦争法案は若者の問題だから、と最近よく耳にします。確かに、実際に戦地に行くことになるのは、私たちの世代であり、またその子供たちでしょう。でも、これは私たちだけの問題じゃない。この世界に生きる人々、みんなに関わる問題であり、私たちはみな当事者なのです。

ある教授が言いました。政治家は人間の生きる可能性をひろげるためのものだと。戦争法案はこの理念とかけ離れた真逆なものだと思います。私は人の痛みに無自覚な人間になりたくない。思考停止もしたくない。でも、この法案が通ってしまったら、いつか人の痛みに無自覚であることを強制される、思考停止することを求められる世の中がくるんじゃないか、そう思っています。そのような世の中、すなわちそれは戦争です。

私たちは今、大きな岐路に立っています。平和を考える上でも、立憲主義を考える上でも、このような形でこのまま法案が通ってしまったら、私たちは本来、国家がいちばん大切にしないといけないはずの立憲主義、そして民主主義を永遠に失うことになるかもしれません。だから声をあげるのです。大げさな何の意味もない、と冷笑する人もいるでしょう。けれど、私は思考し、自らの意志でここに今日集まった1万人の一人ひとりの人間の力を信じています。本当に止めましょう。

2015年7月10日、私は戦争法案に反対します。

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