ワヤンクリの誘惑


 光と影の芸術として知られる、インドネシアの影絵芝居ワヤンクリ。ジョクジャカルタやバリを旅したことがある人なら、1度は見たことがあるのではないだろうか。ダランと呼ばれる人形師が、白いスクリーンの裏側で物語を語りながらさまざまな人形を操り、ランプの灯をたよりにその影をスクリーン上に映し出す、ジャワ島起源の伝統芸能である。
 このワヤンの物語には、古代インドの二大叙事詩「ラーマーヤナ」「マハーバーラダ」などが多く登場する。それはそれは深遠な物語で、“人はいかに生き、いかに死ぬべきか”といった命題を、ヒンドゥー教や仏教の理念に根をおろした神話をまじえながら語り伝えていく。因果応報の世界が壮大なストーリーの奥底に展開する、ジャワの人生観を表したものと言えよう。
 とはいえ、ジャワ語やバリ語で上演されているため、残念ながら私にはその奥深さを理解するまでには至らず、影絵の美しさや、人形たちの動きの面白さに魅入ってしまうといったところだった。
 しかし、このダランのパフォーマンスはたしかに迫りくるものがある。スクリーンに映し出される影は、大きくぼやけたり小さく鮮明になりながら、 実に繊細に夢幻に動いて、 美しい透かし模様を浮き上がらせる。それは、水牛の皮でつくられた平面的な人形が演じているとは思えないほどだ。戦闘シーンなども、何体もの人形が飛び交い、迫力満点。さらに、いかにもという声色でさまざまな登場人物のキャラを演じるダランのおかげで、言葉を超えてストーリーがいきいきと伝わってくる。
 そんな臨場感あふれるワヤンクリは、スクリーンの裏側から鑑賞することもでき、ダランの熱演やガムラン演奏を間近に楽しむことができる。そして、“影”でしかなかった人形が、実は一体一体に鮮やかな彩色がほどこされていることも見ることができるのである。影と色。案外、私たちはこの世のものも、“色”を見ているようで、実際はそのまぼろしの“影”を見ているのかもしれない。

 ところでワヤンクリは、よく観光客用に2時間ほどで上演されているが、もともとジャワでは、午後8時すぎから翌朝午前5時くらいまで一晩かけて演じられるものだ。それならば私も一度は本格的に見てみようと思い立ち、東京で上演活動をつづけている松本亮氏ひきいる日本ワヤン協会の徹夜公演を、渋谷まで見に行ったことがあった。演目は「カルノの生涯」。「マハーバーラダ」のなかに登場するカルノという人物の誕生から最期までを描いた物語だった。
 公演は、夜9時にはじまった。 ゆっくりとワヤンが展開するなか、ダランの語りも日本語なので、すぅーと物語が頭に入ってきた。とはいうものの、夜中すぎ、午前2時ころには、もうほとんど私はまどろみの中。いよいよ物語が佳境に入った夜明け間近にふたたび目覚め、ラストを迎えたという顛末だった。
 こうして上演中の大半が夢うつつだったものの、私は、ついに徹夜でワヤンを見たぞ!という何ともいえない充実感に満たされていった。夜明けの疲労感と爽快感もひっくるめてジャワのワヤンクリを堪能できたとでも言おうか。そしていつかは、本場ジョクジャカルタの熱帯の空気のなかで、一夜のワヤンを味わってみたい…と、美しい余韻までも残したのだった。

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