3.11の赤い月


 「3.11」東日本大震災という未曾有の大災害から1年を迎えた。東京での仕事に追われて、なかなか東北に行く機会をもてなかったが、1年目の3月11日は東北で犠牲者への祈りを捧げようと思い、宮城県亘理郡にある小さな町、山元町を訪ねた。ライターとしてではなく、被災地支援のボランティアの一員として地元のお手伝いができればと思い、バスで行くボランティアツアーに参加したのだった。

 前日10日の深夜11時半、池袋発のボランティアツアーのバスに乗り、夜通し北へ北へと向かった。早朝山元町に着くと、その前日に雪が降ったらしく、あたりはうっすら雪景色となっていた。そして午前9時に山元町のボランティアセンターがある町役場に行き、そこで指示を受け、ボランティアバスは現場へと向かうこととなった。本日の担当は、とある農家の畑のガレキ除去作業とのことだった。
 それまであまり知らなかったのだが、山元町は、東北一のいちごの産地として名高い町。海岸近くの低地にはビニールハウスが並び、多くの農家がいちごを栽培していたという。そして1年前の津波で甚大な被害を受け、いちご農家はその9割が被災し、海外近くのハウスはほぼ全滅したのだった。 これから向かう畑も、そのひとつ。元々いちごのビニールハウスがあった畑だという。
 こうしてバスは海の方に向かって道を進めていった。途中、両サイドがガレキの山積みになっている場所を通過した。何百メートルもつづくガレキの山・山・山。その山と山の間の更地には、車はひっくり返ったまま放置され、半壊した家もその残骸をのこしたままポツンポツンと建っていた。1階部分は柱のみで、かろうじて2階部分を支えている家。全壊し、土台だけがのこっている家。テレビで見た光景が、バスの窓枠の向こう側にひろがっていた。そしてその先に穏やかな海が佇んでいるのが見えたのである。
 しばらく走るとバスは目的地に到着した。総勢約80名のボランティアメンバーは、作業しやすい服装に安全長靴をはき、ゴム手袋をはめ、顔にはマスクをしてバスから降りた。畑では農家のご夫婦が待っていてくれて、早速作業に入った。被災地ボランティア初参加のわたしは、更地になっている広大な畑を前に、いったい何をするのか検討もつかなかった。が、スコップで掘り起こすと、土の中には、津波で流されて砕けた木や板、丸い海の小石、鉄パイプや、プラスチック、ガラスの破片、そして女性用のウォーキングシューズや自転車のチェーン鍵、ミシン糸など生活の匂いのするものまで、いろいろ出てきたのだった。そのガレキを仕分けして土嚢袋に入れる作業をしていったのである。
 掘っても掘っても出てくる小さな木の破片。重機では撤去することができない、手作業で取り除くしかないガレキが、こんなにもあるとは東京にいたときは想像すらできなかった。被災地では、こうやってコツコツ根気のいる作業をしながら、地道に努力して復興に向かっているんだとしみじみ実感したのである。このガレキ撤去には、人員が必要なこと、そして地元の人たちだけでは途方にくれてしまうような作業だということも手に取るように分かった。
 そしてお昼になり、畑の横でみんなでボランティア弁当を食べた。すっかりボランティア同士のいい関係が出来上がっていて、お弁当も申し訳ないくらい美味しかった。ところが、作業中はあまり感じなかったのだが、じっとしていると寒さがこたえた。体の芯からシンシンと冷えてくる。天気予報では気温1度とあったけれど、とにかく底冷えのする寒さだったのだ。そして同時に、1年前の今日も同じくらい寒かったことを思い起こさせた。この寒さの中、津波に襲われ流されたのかと思うと、なんとも言えない思いになった。「もういい…」と、わたしだったらあきらめていたのではと。そんな思いが沸き上がってきたのである。
 午後も同じ作業を繰り返し、土嚢袋はどんどん増えていった。結局、すべての畑を終えることができなかったが、午後2時には作業を終了し、町役場に戻ることとなった。そして午後2時46分に黙祷を捧げる追悼式に参加したのである。

 町役場の広い駐車所には、大きなテレビがミニトラックの上に設置されており、政府が行う追悼式の様子が映し出されていた。そして海に向かって献花台がおかれ、その前に地元のボランティアセンターの方々と、各地からバスでやって来てそれぞれの場所で活動したボランティアの人々266名が並んだ。一般の山元町の人たちは、山下中学校体育館で行われる「山元町追悼式」に参加しているとのことだった。
 そして午後2時46分。サイレンの音が曇り空がひろがる町中に鳴りひびき、人々は1分間の黙祷を捧げた。わたしも列の後ろに並び、静かに目を閉じて祈りを捧げた。長い長い1分間だった。朝、到着早々、ボランティアセンターの代表の方が挨拶で話してくれた、山元町では611人が犠牲となり、いまだ見つからない行方不明者も13人いるとの話が思い出された。寒空の下、行方不明者への思いが、ことさら強く感じられた。その家族は今どんな思いで今日を迎えたのだろう。
 黙祷の後、献花を持ってきた人、一人ひとりが献花台に花をたむけた。わたしも東京から持ってきた黄色のガーベラと白とピンクのかすみ草の花束を捧げた。小さな花束だったけど、ささやかな気持ちだった。そして、それぞれが、それぞれの思いを抱えながら、帰りのバスに乗り込んだのだった。
 出発直前、山元町のボランティアセンターの方がバスの中まで乗ってきて挨拶をした。「もう今日は泣きそうです」から始まった挨拶。多くの人を亡くし悲しみを背負いながら1年がんばってきたことや、ボランティアの人たちに支えられたことへの感謝の気持ち、そして町の名産であるいちご、りんご、ホッキ貝を復興させていきたいとの思いを語ってくれた。「だからまた来てほしい」そう続けた言葉に、わたしも心の中で深くうなずいていた。

 東京への帰路、佐野サービスエリアを過ぎたころ、東の夜空を見ると、大きな赤い月が煌煌と輝いていた。満月を過ぎた十七夜あたりだろうか。こんなに赤い月を見るのははじめてだった。バスで隣の席の人が、「不気味だよね、赤い月は良くないことの前兆とされているのよ」と教えてくれたけど、どうなのだろう。日本中が鎮魂の祈りを捧げたその夜、亡くなった方々も同じように東北の復興への祈りを共に捧げてくれたんじゃないだろうか。そんな亡き人々の思いを月が語っているように感じられ、穏やかな気持ちになっていった。
 やがて月は、バスが東京に近づくほどにオレンジ色に変わっていった。そしてバスは深夜11時ころ池袋に到着。24時間の弾丸ツアーが終了した。


関連記事